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古都鎌倉

古都鎌倉 番外編 寒川町の梶原景時館跡

鎌倉の梶原を訪ねたあと、梶原氏のもう一つの根拠である寒川町に足を運びたくなり、機会をうかがっていたら所用ができました。ついています、私。寒川町には館跡があります。発掘調査が行われ土塁や堀など館跡と想定される遺跡がでました。しかし景時を特定するものはでていません。
残念ながら遺跡は少ない。

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最寄駅はJR相模線の寒川駅。館跡には徒歩15分程度です。相模原線は単線です。

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途中のあじさいが鮮やかでした。
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館跡があるのは旧大山街道に面していて中原街道とも交差していました。現在も旧街道筋を思わせる佇まいがいい。散歩気分でぶらっとするのがよいのですが、次のアポイントがあるので大急ぎです。

○旧大山街道 この先に館跡があります。
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江戸時代は一之宮村で西に向かうと相模川の田村の渡しにつながっていました。相模川の対岸は平塚市田村で景時の時代には三浦義村の館がありました。景時の所領は交通の要衝でもあり、鎌倉防衛にとっても重要な位置付けであったとおもいます。

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さて館跡です。館跡の一部に天満宮があり、標柱と説明板がおかれています。
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館跡には天満宮がありました。やや高台になっています。櫓があったともいわれています。
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○解説版
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○解説版のmap  解説版は2つ。★2がこちら

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天満宮から3分程度で次の解説版です。    
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梶原景時公像 この表情の根拠が知りたいものです。
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梶原景時は石橋山で歴史を変えたのに悲しい末路でした。
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また少し行くと梶原伝七士の墓があります。
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梶原伝七士の墓     

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解説版  墓の実態はわかりませんが悲しい伝承です。
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この壁際の水路が当時の内堀跡?
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館跡の天満宮に戻り、北に伸びる旧中原街道。左側の石垣は土塁の跡という伝承があるようです。
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今日はここまで

◆梶原景時館跡
所在地  神奈川県高座郡寒川町一之宮8-6
アクセス JR相模線寒川駅徒歩15分
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古都鎌倉 御成通りの武者幟

    JR鎌倉駅西口を出て線路沿いの南に延びる商店街が御成通りです。

    この通りに武者幟が掛かっています。鎌倉幕府を支えた高官や有力御家人ばかりです。
    たぶん、全部写真に収められたと思います。
    
    ○源頼朝
    いわずと知れた鎌倉幕府初代将軍。武門の世を開いた巨人です。

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    ○畠山庄司重忠
    常に幕府の先陣を勤め、坂東武士の鑑といわれたこの時代の英雄

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    ○稲毛三郎重成
    多摩の枡形城を本拠にした御家人。畠山重忠とともに滅亡します。

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    ○渋谷重国
    義朝の時代から源家につかえ、義経・範頼の京都攻略戦にも参加。

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    ○安西景益
    石橋山の敗戦で上総に逃れた頼朝に参上し参加に。鎌倉氏かも?

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    ○那須与一宗隆
    屋島の戦いで扇の的を射た那須与一。実在を疑われていますが源平合戦の華ですね
    

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    ○熊谷直実
    鵯越、敦盛との一騎打ち、出家など逸話の多く、坂東武者の典型

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    ○工藤祐経
    曽我兄弟の仇討ちにあう。頼朝の寵臣。

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    ○佐竹秀義
    一度は頼朝に敵対するも御家人に。家系は大名として幕末まで続く。

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    ○大友能直
    頼朝の寵臣、落胤説もある。大名・高家と続く大友家の初代。

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    ○源範頼
    頼朝の弟。義経と対比されて凡将扱いされている。そうでもないかも?

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    ○千葉常胤
    古くから源氏の傘下におり、頼朝の挙兵と共に参陣。

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    ○北条時政
    頼朝の妻政子の父。私が嫌いな武人の一人。

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    ○三浦義澄
    三浦半島を領した頼朝の宿老。

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    ○大江広元
    頼朝の側近で創業の功臣。初代政所として幕府政治を指導する。

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    ○土肥実平
    頼朝の挙兵から行動を共にした鎌倉幕府の重鎮。

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    ○比企能員
    頼朝の側近。

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    ○佐原義連
    鵯越の逆落としを真っ先に駆け下りた逸話で有名。三浦氏の庶流。
    
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    ○梶原景時
    創業の功臣だが義経との関係で印象が悪い、かわいそうな武人。

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    ○和田義盛
    初代侍所別当。三浦一族。純粋に武人で頼朝の創業を助けた功臣。


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    ○佐々木高綱
    名馬「いけづき」とともに宇治川合戦の先陣争いはあまりにも有名。
    
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    ○海老名季久
    現在の海老名市領した武人。    

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    この幟り写真をとっていたのは私ぐらいです。(撮影:2012年4月29日)
                                                                                                             きむらよしのぶ
 

古都鎌倉 no.5-6 鎌倉党武士団 鎌倉景正と坂ノ下御霊神社

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                                                    鎌倉党 五平氏の拠点MAP

■鎌倉氏
関東平氏の祖は鎮守府将軍平良文で、晩年に鎌倉の村岡に居を構えて子孫が勢力を拡大していきます。
    
系図は
平良文→平忠通(四男)→景通→景成→景正(景政)→景明と続きます。

景通、景成の頃には河内源氏の初代源頼信に出仕するようになる。頼信は鎮守府将軍、相模守を歴任し関東に基盤を作っていきます。頼信が屋敷を構えたのが鎌倉の大倉でここが関東での拠点となります。
大倉はその後も源家の拠点で頼朝の代には幕府が置かれることとなります。話がそれました。

景通から鎌倉氏を名乗ったようです。子孫は発展し各地に展開し分家していきます。鎌倉の名は景明で終了し次代義景は長江氏を名乗ります。血縁からいえば長江氏が本家のようですが、氏の大事な荘園、大庭御厨は大庭氏が継いでいます。長幼の序列より実力だったのでしょう。

■中興の祖 鎌倉権五郎景正

鎌倉氏は権五郎井景正の時に発展します。「権五郎」は権守の五男という意味と思いますが、景正の時代は地方長官として鎌倉に根をはっていたことがわかります。

景正は現在の村岡城址公園周辺で生まれ、その後村岡御霊神社付近にあった館に住まいしたようです。

この時期、源家三代目は八幡太郎義家です。義家が鎮守府将軍として鎌倉に下向した際、景正は大倉の自分の屋敷を義家に進呈しています。源家の屋敷もあったはずですが、規模拡張なのか、老朽化など屋敷に問題があったのかもしれません。

景正が拠点を移したのは現在の甘縄神明宮のあたりとの説もあり。

(1)後三年の役で天下に名を示す
景正16歳のとき、鎮守府将軍義家に従い奥州に出陣した。果敢に戦い目を射抜かれながら敵を倒して目に矢が刺さったまま帰陣します。景正は仲間に矢を抜くことを頼みます。三浦為次は景正の顔に足をかけて矢を抜こうとすると、景正は怒り抜刀します。理由を尋ねたところ、景正が答えるには、
  
「 弓矢で死ぬのは本望だが、顔に土足をかけられるは許さん。
 それならばお前を討ち、自害する 」 と。

周りのものは鎌倉権五郎の剛毅さを褒め称えたということです。武士階級が世に出た中世の空気を感じさせる逸話です。

(2)大庭御厨
後三年の役で華々しい登場をした景正ですが生涯は不明な点が多い。晩年に大庭御厨の開発に着手し成功を収めます。
         (前回の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/no5-2-ffef.html)
武門の一典型として権五郎に興味がありますが、なかなか資料がみつからない。残念ですね。
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<坂ノ下御霊神社>
江ノ電長谷駅から5分程度で坂ノ下御霊神社(鎌倉権五郎神社)があります。大倉の館を義家に進呈して景正が居を構えた甘縄はこの御霊神社であるという説もあります。
  
頼朝の鎌倉入りと共に鎌倉五平氏のいくつかが衰退していきます。その後、この地に五平氏の祖である権五郎景正を祭ったのが坂ノ下御霊神社ではないかといわれています。こうした説が登場するのは、なんらかのゆかりがこの地にあったはずだと思います。

Photo  
●力餅屋
参道入口のような場所にある饅頭屋さんです。300年の歴史があるそうです。向かって左の石柱もいい。  

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鳥居の前を江ノ電が通ることで有名です。
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線路の先のトンネルを抜けると極楽寺駅
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    神社の由緒書     
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9月の面掛行列は有名です。奇祭というべきかな

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こぶりな境内です。
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拝殿(本殿?) 
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    鎌倉権五郎 弓立の松  権五郎が領地を見回る時に弓を立てかけた松
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屋根飾り なんというのかな?
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【坂ノ下御霊神社】

所在地  神奈川県鎌倉市坂ノ下

アクセス 江ノ電長谷駅より5分
                                                    きむらよしのぶ

 

古都鎌倉 no.5-5 鎌倉党武士団 梶原一族発祥の地

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                                                    鎌倉党 五平氏の拠点MAP

■梶原氏
梶原氏の祖は鎌倉権五郎の兄弟、景通の嫡男景久で子孫です。古代には梶原郷、中世には梶原荘の中心地だったと思います。この地を領有し、梶原を名乗るぐらいですから当初から大きな勢力だったのでしょう。景久の曾孫が有名な梶原景時です。
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●梶原景時とその後
ヒーロー判官義経のお陰で大層な憎まれ役になっていますが、彼が歴史を変えたことは事実です。
本人は気付いていたのかな?頼朝が旗揚げした石橋山の戦いでは大庭氏と共に敵として戦っています。
大庭氏と共に先陣であったように記憶しています。大庭氏は大きな領主ですから梶原氏はそれに匹敵する勢力だったと思います。

有名なのは石橋山で敗走し、洞窟に身を潜めた頼朝一行を見逃した逸話です。
    大河ドラマの「草燃える」で江原真二郎が梶原景時を演じておられましたが、これが抜群でね。芸の厚みと共に新しい景時像を演じきっておられました。だから私は景時によい印象を持っています。

頼朝が鎌倉に入り、景時はは頼朝の前に現れ御家人となります。

頼朝が天下を掌握して以後、景時の領地は全国に広がります。梶原の地も領地だったと思いますが、本拠は寒川町に移行します。

景時は幕府二代源頼家の代に弾劾を受けて滅亡します。その後も一族は全国に展開しています。
足利幕府に使えた勢力や尾張織田氏に仕えた一族、讃岐で勢力を保った一族など長く歴史に名を残します。

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<梶原の地>
湘南モノレール湘南深沢駅の周辺が梶原です。古代に梶原郷があり開拓地として古い歴史があるようです。北に村岡城跡、西に村岡御霊神社、鎌倉街道が通る要衝です。水利も豊かでよい農地だったのではと思います。

また鎌倉市街中には梶原からいくつかの道があります。緩やかな丘陵地を登ると、化粧坂に至ります。
新田義貞が鎌倉攻略戦の本軍をこの地においたのは、多くの道があったからだと思います。

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湘南モノレール この風景大好きです。
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駅から5分程度で深沢小学校につきます。日曜だったのでグランドでは少年サッカーをやっていました。
    (一応断って入りました)
正門を入るとすぐを左に。校舎の山側にいくと梶原景時の供養塔に至ります。

●①梶原景時一族の供養塔
やぐらの中は梶原景時と一族の墓とも、後の供養塔ともいわれています。景時が滅亡した時の館は寒川町にありました。この地も領地だったのでしょうか?それにしても謀反人ですから、鎌倉に近いこの地に公式な墓を用意したとは思いにくいのですが。

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梶原御霊神社  
御霊神社は先祖である鎌倉権五郎を奉っていて、景時がこの地に勧進したらしい。
    
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ご近所の方と一緒に参拝しました。立地がよいですね。
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本殿に掛かる由緒書
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社殿横のやぐらと鎌倉権五郎の供養塔 
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このやぐらは何なのでしょう。いわくありげです。
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梶原の館跡などの痕跡はありません。寒川町の梶原館址を見るとこの地でもそうとうな規模だったはず。
他の五平氏の本拠は丘陵にある為、この地でもそうだと思うのですが糸口がありません。発掘資料を読んだらヒントがあるかもしれません。これは宿題にしておきます。


【梶原御霊神社】

所在地  神奈川県鎌倉市梶原2丁目
アクセス 湘南モノレール湘南深沢駅より10分
                                                きむらよしのぶ

古都鎌倉 no.4-6 化粧坂(けわいざか)切通

鎌倉七口(切通)の最後は化粧坂切通です。

化粧坂切通は他の切通と違って複数の道が通る丘陵にあって、中心的なルートの特定は難しい。また丘陵の山頂には市場、商店街が形成されていたようで、私は化粧坂切通がメインの出入り口だったのではと考えています。

鎌倉時代に鎌倉街道の整備が進みます。鎌倉から武蔵国の中心(府中)へ向かう主要な道の鎌倉側の境界でもありました。

●化粧坂(けわいざか)切通の由来

名前の由来はいくつかあり、次のとおりです。

鎌倉に入るため前に身だしなみを整える場所だったから
     
首実検のため化粧した首が通るため

郭があり遊女のおしろいを想定したから

などがあります。古い書では“気和飛”とも書き、にぎやかな場所を意味する言葉である為古くから歴史を見てきた場所だったのでしょう。
●本来のルート
鎌倉市街中側の入口ははっきりしていますが、現存する切通を抜けて尾根に出ればいくつかの道があります。当時のルートははっきりしません。

現在鎌倉市街中から化粧坂を登ると公園化しています。源氏山公園が十字路のようになっていて大きく4つのルートがあります。

北鎌倉へのルート
洲崎へのルート
梶原へのルート
大仏・極楽寺へのルート

ハイキングコースになっているものの。穏やかな道です。

鎌倉時代の化粧坂を考えるファクターはいろいろあります。

一つ
化粧坂を登り、市街地を出るとそこには鎌倉の地を切り開いた平良文の晩年の拠点村岡城跡があり、その後子孫が展開し鎌倉五平氏といわれた氏族の本拠地が広がっています。鎌倉では早期に開拓された地で
市街中へのルートもあったはず。郡衙もあり頻繁に出入りがあったように思います。

二つ
また、後年新田義貞の鎌倉攻略では当初新田本軍が本拠にしたのは村岡城であり、現在の深沢地区でした。
 “鎌倉城”の大手門のような位置づけがここ化粧坂にあったのではと想像できます。

三つ
化粧坂の周辺は北條氏の別邸などがあり、切通の整備は北条執権が登場以後急速に広まっていきます。
鎌倉は開幕以来急激な人口増加で市街地中で繁華な街づくりが難しかったのでしょう。そこで街中に近い、
比較的穏やかな丘陵地で、街道筋にあたるこの化粧坂周辺が繁華になったと考えました。

さて当時の道ですが切通を通過後、洲崎(下記地図の①)ルートが一番自然なように思いました。
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<化粧坂切通 地形図 (赤いルートです)>
①~⑤が代表的なルートのようです。一部をのぞいて歩きやすいハイキングコースになっています。

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鎌倉駅から今大路を北に向かいます。寿福寺の前を通り線路沿いに進みます。少し進むと左折して3分ほど行くとこの看板が。
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5分弱で切通につきます。

標柱  ここから先が史跡指定を受けているようです。

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標柱を超えるとさっそく急坂です。岩が滑る。くだりはかなり危険です。
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前日が雨だったら大変みたいでした。
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上りきると解説版が出てきます。
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源氏山公園の源頼朝像 山頂は公園化しています。家族も多い。
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葛原岡神社前の広場
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今回は②のコースで梶原に下りました。
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他のコースは別の記事で紹介します。                                                                                                                        (撮影:2012年5月13日並び5月26日) 

                                                    きむらよしのぶ     

古都鎌倉 no.4-5 極楽寺坂切通

極楽寺坂は鎌倉七口(切通)の一つで、七里ヶ浜に繫がっています。坂の名前は坂の西にある極楽寺があることからそう呼ばれてきたのだと思います。

極楽寺創建は正元元年(1259)といわれていますからこれ以降だったと思います。それ以前、西側から鎌倉に入る道は稲村ガ崎の海岸線を通っていたようです。潮の満ち引きもあり難路だったはずです。極楽寺坂切通が出来てからは稲村ガ崎ルートは廃道になったようです。

現在の極楽寺坂は一般道となっていて、壁面はコンクリートが張られ往時の面影はありません。当時は他の切通と同様、山の上を越えていたはずですが、現在はかなり掘り下げられていてます。
そんなことで、極楽寺坂切通は鎌倉七口で唯一国指定史跡から外れています。

     
<極楽寺坂切通 地形図 (赤いルートです)>

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江ノ島電鉄長谷駅から御霊神社に立ち寄ったあと切通に向いました。事前情報がないと通り過ぎそうでした。距離は200m程度だと思います。

●標柱が右側に見えます。道の先は極楽寺駅です。

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標柱
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振り向いて長谷方面を。下っているのがわかるかな?右の階段は成就院への参堂です。
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成就院の参堂(階段)から切通を眺めます。
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成就院 参堂   成就院は切通開削以前から存在しました。切通はこの坂のように山を登っていたはず。成就院は切通に面していたのかもしれません。
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鎌倉市街地と由比ガ浜と材木座海岸  成就院階段から
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成就院は新田義貞の鎌倉攻略戦で焼失します。攻略戦は別の機会で。
           
                                                                                                                  (撮影:2012年5月13日並び5月26日) 

                                                    きむらよしのぶ     

古都鎌倉 no.4-4 大仏切通

鎌倉七口も5つ目。大仏切通です。長谷大仏から近く、アプローチは容易です。距離は短いのですが野趣あふれる佇まいで値打ちがありました。

大仏切通の成立時期はわかっていません。新田義貞の鎌倉攻略て戦闘がないことや、鎌倉を訪ねる紀行文に登場しないことで実在を疑う向きもあるようです。足を運ぶと、常盤地区に抜ける為に生活道路はずっとあっただろうと思いました。また新田軍は梶原に本軍を置いていましたが、この切通までには距離がある為、化粧坂に向かったのだと思いました。鎌倉軍の防衛ラインとしては内側のラインになっていたと思います。


現在の切通は明治期に大幅に拡張修復されています。またその後の関東大震災で大きな被害を受けて、大きなダメージを負っていて明治期の痕跡もわかりにくくなっています。そのおかげで手が入っていない味わいが感じられてよりよいものになりました。

     
●大仏切通 map (青いルートです)

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①江ノ島電鉄長谷駅から鎌倉大仏に向かって歩き出します。鎌倉大仏を過ぎて5分程度で大仏隧道が現われます。
トンネルの右側にハイキングコースの入口があります。これが大仏切通へのルートです。

この階段です
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すぐ分かれ道です。
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序盤はこうした階段が続きます。すぐ終わります。
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5分程度で標柱が出てきます。
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標柱
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「日の見下」への案内が出てきますから、そちらに向かいます。
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なんとなく切通のにおいがしてきました。道の真ん中に大きな石が。名越切通にもありましたが、あえて障害を設けているのでしょうね。

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解説版 ということはこちらが入り口なんですね。

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やぐらが見えています。墓ではなく、守備用の何かともいわれているようです。
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距離はわずかです。長谷から歩きましたが、常盤側の日の見下から入るほうがわかりやすいと思いました。
     
                                                                                                                (撮影:2012年5月13日) 

                                             きむらよしのぶ     

古都鎌倉 no.5-4 鎌倉党武士団 長尾氏と長尾台砦址

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                                                    鎌倉党 五平氏の拠点MAP

    ■長尾氏と上杉謙信

    鎌倉権五郎の子孫が長尾次郎と名乗り、この地に入ったのが鎌倉長尾氏のはじまりです。頼朝の挙兵時は平家方
    として源氏と戦います。頼朝が鎌倉に入った後は三浦氏に預けられます。御家人とはなるものの三浦氏の被官で
    もあり鎌倉時代にはふるいません。宝治合戦に三浦氏と行動を共にし没落します。各地に傍系長尾氏が存続しま
    すが、節目が変わったのは親王に供奉してきた上杉家との関係ができたことです。室町時代には関東管領上杉家
    の家宰として勢力を拡大します。一方地方進出した中に史上有名な武将が登場します。越後長尾氏の長尾景虎、
    後の上杉謙信です。歴史は面白い。まさか謙信の名が出てくるとは。

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    ●長尾台峠址

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    大船駅から徒歩20分。途中城址の丘陵が見えてきます。発掘調査も十分ではないようですが、南側に高台がある
    ので本丸はそのあたりかもしれません。

    目印は長尾台御霊神社です。長尾氏がこの地に入った時に村岡御霊神社から勧進したものです。鎌倉にはたくさ
    んの御霊神社があります。鎌倉党武士団が先祖の鎌倉権五郎をいかに大事にしていたかがわかりますし、権五郎
    の英雄ぶりが感じられます。

    ●参道入り口 案内がありませんからわかりにくい

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    ●境内から見下ろした参道 かなりかわいらしい

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    ●社殿の前はゲートボール場になってました。こういうの大好きです。

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    ●本殿に掛かる由緒書

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    ●社殿横の解説版  上杉謙信の祖で説明していました。

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    ●郭? 社殿周辺には郭を想像させる平地がつながっています。

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    ●もう一つの解説版
    御霊神社のぶらんこ側から本殿裏の道に出て道なりに進むと出てきます。

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    最後は後北条氏に属し、尾根伝いに築城された玉縄城の出城でした。小田原攻めの後、廃城となったようです。


【長尾台砦址】

所在地  神奈川県横浜市戸塚区長尾台
アクセス JR大船駅より徒歩20分、バスなら長尾台バス停より5分
                                                きむらよしのぶ

 

古都鎌倉 no5-3 鎌倉武士団 村岡氏と2つの村岡城址

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■坂東平氏の祖 平良文
鎌倉権五郎の先祖は桓武天皇で、臣籍降下した後裔が関東に下ります。茨城・千葉が中心でしたが一部のものが武蔵・相模に進出します。それが平良文(村岡五郎)です。

平将門の時代で兄弟や同属は将門との戦いで滅びます。良文はまず群馬県熊谷市村岡に着任し緊張関係にあった武蔵の安定に力をつくします。その功で陸奥守に任官し鎌倉の村岡に居を移します。当時陸奥守は相模にいたそうです。こうして良文とその後継が鎌倉に根をはることになります。

        
■良文と一族の住まい
良文の住まいには複数の説がありますが代表的なものが現在の村岡御霊神社、村岡城址です。
当然引越しもするでしょうし、家族が増えて屋敷も増えるでしょうから転々としたのでしょう。良文の孫(or曾孫)と推定される鎌倉権五郎は村岡城址付近で生まれたようです。恐らくこの地に荘園があったはずで、現在は宅地化が進んでいますが水利もあり実りの大きい土地だったと思います。
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●村岡御霊神社

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この神社の周辺に平良文と一族の住まいがあったと伝えられています。村岡御霊神社の南側は「宮前」の名が残っていて、宮前には一族で住まいしていたと伝えられています。

現在の柏尾川に掛かる橋が「古館橋」。この名前、想像力をかき立てます。

●参道 村の鎮守という印象。
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●階段の上が本堂です    Cimg7466_2

●平良文が勧進、御祭神は平氏のご先祖。没後権五郎も合祀されます。鎌倉氏にとって権五郎は英雄だったのでしょう。後裔は景政の「景」の字を代々使っています。有名なのは梶原景時です。今回鎌倉を調べるまで“鎌倉権五郎景政”の名すら知りませんでした。ぬかってました。

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●鎌倉権五郎の後三年の役に関わる伝承碑
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●旗立山の由来

同様な伝承が源氏山にもありますね。出陣の習慣だったのでしょう。源氏の白旗が掲げられると、伝播されていき各地から息せき切って武士たちが集まってきたのでしょう。
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村岡は五平氏が展開した拠点の中央に位置しています。一族の展開ぶりが感じられて面白い。また鎌倉街道が旗立山の東側を通っていました。石碑がありましたが説明版もなくどう理解したらよいかわかりません。
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鎌倉時代、村岡は街道の出入口で化粧坂や大仏切通に通じていました。新田義貞もここを通ったのですね。

●兜松
左のネットフェンスは神戸製鋼所の敷地ですが権五郎の伝承がありました。中には入れませんがネット越しです。
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●古館橋 この橋を渡ると「梶原」に通じます。
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●旗立山の遠景 柏尾川より
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●村岡城址
村岡御霊神社から北に1km弱に村岡城址公園があります。城は岬のような場所にあります。平良文がこの城跡から少し北の渡内にあったといわれています。遺構はほとんどありません。また村岡氏の実態も判然としません。
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●東郷平八郎元帥額書よる石碑
東郷家は村岡氏の後裔でありその縁だそうです。
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●城址から村岡御霊神社方面を眺める
向かって右の小山が、旗立山のはず。
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平良文は通称村岡五郎。村岡の名は次男がついだようで、三浦氏など大族が出ましたがあまり記録に残っていません。村岡本家という存在は早い時期になくなったのでしょう。村岡城は室町・戦国時代にも存続していました。最後は豊臣秀吉の北条攻めの後廃城となります。

  
【村岡御霊神社】
所在地  藤沢市宮前560

【村岡城址公園】
所在地  藤沢市村岡東3-28

                                                    きむらよしのぶ

 

古都鎌倉 no.5-2 鎌倉党武士団 大庭氏と大庭城址

Map_2                                                      鎌倉党 五平氏の拠点MAP

■大庭御厨の成立と発展

鎌倉権五郎は大庭御厨という荘園を開拓します。荘園とは農業開拓地であり、権五郎は開拓した土地を伊勢神宮に寄進し保護をうけることで成立しました。御厨の「御」は伊勢神宮ということです。

権五郎は源家の郎党ですから源義家に寄進すべきですが、義家への寄進が禁止されていた時期だったためのようです。

義家は英雄的武略の反面、官僚としては不遇な後半生を送っています。平安時代後期の荘園はこうした都や宮廷に近い勢力に寄進して公認するケースが増えてきます。現代の子会社化や業務提携のようなものです。
現代社会とはちがって土地登記の考え方が曖昧で、周辺武士団とは常に緊張関係にあったはずです。

大庭氏は鎌倉権五郎の子孫がおこしました。本拠を相続したわけです後継者の中でも実力があったのだしょう。成立は12世紀前半です。
    
■鎌倉幕府成立と衰退

12世紀半ば源家は義朝が率いて関東で頼信以来の基盤拡大に腐心していました。義朝は大庭御厨への浸蝕行動を開始します。数度にわたる戦いで大庭御厨は朝廷の裁定で一応勝利を収めますが損害が大きく衰退してようです。
また戦闘を通じて源氏の傘下に入り、その後保元の乱を戦います。鎌倉幕府の成立時には一族がわかれて戦います。幕府内で重きを成しますが北条氏との勢力争いに破れ和田合戦に連座して衰退していきます。
     
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●大庭城址

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大庭城周辺は宅地化しているものの、高い建物がなく山野は当時の趣を伝えています。鎌倉党が本拠をおいた往時を想像しながらの散歩がよい。城址の南側には農地が広がっています。標高42.8mの大規模な平山城です。
東に引地川、西に小糸川に挟まれた要害の地といえます。成立年代は不明で、鎌倉権五郎が開拓した頃の居城か否かは確定していません。室町時代後半に築城の名手太田道灌が本格的な中世城郭としたようです。その後、後北条氏の居城となり最後は豊臣秀吉の北条攻めで廃城となりました。

城は北側が宅地化され城址公園として南部が名残るが相当な規模です。    

●公園内の石碑
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●公園MAP  芝生の広場がいっぱいです。

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●残る遺構はほとんどが戦国時代のもの。

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●四つの郭に分かれています。建物址が保存されています。
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●建物の柱址
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●堀址
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●土塁址
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●縄文時代からの遺跡が発見されています。

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●引地川からの遠景
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現在も農地が広がり、水利もよく大荘園であったことがわかります。五平氏の拠点を訪問してみましたが鎌倉郷でもこれだけの規模の開拓可能地はなかったように思います。

◆大庭城址

所在地  神奈川県藤沢市大庭6323
アクセス  JR辻堂駅、小田急湘南台駅よりバス。本数はかなりあります。