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古都大津

東海道最大の宿場 大津 -古都大津no.5ー

■東海道最大の宿場 大津宿

10月に行われる大津祭。京都の祇園祭を継承して江戸時代に製作された13基の曳山が町をめぐります。

            ○大津祭 曳山


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            ○以前の投稿記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/2010-26af.html)

曳山は江戸時代の大津町の財力をよくあらわしています。

大津籠城戦で灰燼に帰した大津町は城下町から役割を変えます。

①宿場町 ②湖上・街道を活用した物流・商業の基点 ③園城寺の門前町

こうして大津は大きな成長を迎えます。

宿場大津は東海道一の規模でした。

天保14年(1843年)当時、

   長さ 東西16町51間(約1838m)・南北1里19間(約3962m)、

   人口 14892人、家数3650軒、本陣2、脇本陣2、旅籠71軒。

中山道最大規模を誇った本庄宿が人口4554人・家数1212軒ですから全国でも有数の都市だったかもしれませんね。

■京都ー大津間の峠越え 車石

旧東海道を京都三条大橋から出発し山科駅周辺をすぎると追分という集落が登場します。この地が大津宿の京都側の境になります。

            ○横木町にある旧東海道map(国道一号線で旧東海道は切れています)

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追分の語源は道が二つに分かれるということで、大津市の追分は東海道と伏見街道の分岐点です。

            ○追分の石柱(みぎハ京みち、ひだりハふしみみちとの記載)

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豊臣秀吉により大津城が築かれたのですが、その理由がこの伏見街道に求められています。

坂本城があった頃は京都が政治の中心でしたが、秀吉は伏見→大坂に拠点を移します。その為街道整備が必要になりました。

大津から京都へは山中越を使っていましたが逢坂山を越えて伏見に出る方が便利になったのです。

追分は大津市街地とは峠をはさんだ立地で京都山科に近接しています。大津宿に属するのが不思議に感じていましたが、

おそらく街道分岐の追分の重要性があってのことだったのでしょう。

ところで大津ー三条間は日ノ岡、逢坂山を越えなければいけません。人馬はともかく物資輸送は大変でした。

そこで、車石という牛車を通す車道を整備しました。

            ○追分の閑栖寺に残る当時の街道(右が人馬道、左が車道)

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      車道を保存している場所はありますが、人馬道とセットで保存しているのは始めてみました。

      この幅の倍あったのが当時、この地域の東海道です。

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            ○横木にある車石の解説版

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追分から逢坂山、そして市街地のルートは国道と高速道路、鉄道が平行して走り当時の面影はありません。

■逢坂の関

逢坂山には逢坂の関の碑があります。

            ○逢坂山関址と解説版

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逢坂の関は古代からの関所で、本格的に稼動したのは平安京の防衛施設としてです。

逢坂山の峠は近代にかなり掘り下げたようで当時の関所の場所はわかっていません。

この石碑は峠の一番高所にありますが、むしろ大津市街地に下りたあたりだったようです。

峠を下ると国道1号線と市街地に向かう道が分かれます。左側の下り坂が東海道で市街地に入っていきます。

■大津町

大津宿は大津百町とも呼ばれていて、文字通り百の町が存在しました。江戸時代は幕府の直轄地で

代官所が置かれていました。

宿場大津は3つの大きな通りで区分けされていて現在も変化はありません。

湖岸の埋め立てや周辺地域の開拓で町自体は拡大していますが、旧東海道、北国街道などを中心に

江戸時代の面影が残る町です。

Photo

江戸時代中期、寛保2年(1742年)写の「大津町古絵図」と見比べてみましょう。

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現在の地図で大津駅あたりは未開の土地でした。山側が開拓されているのがよくわかります。

京都側の境は追分でしたが、南(地図の左側)は馬場町、北(地図の右側)は尾花川町でしした。

●本陣跡、代官の墓所、近江別院

現在の京町1丁目交差点が当時は札の辻と呼ばれ、高札が掛かる行き止まりの三叉路でした。

今は浜大津まで道がつながっています。またこの周辺に本陣が置かれていました。

関が原の戦いの後、徳川家康は大津城で戦後処理をおこなっています。関が原で勝利した徳川家康は他の地域の戦闘指揮をしつつ、5日後に大津城に入りしばらく滞在します。

この間、石田三成が捕脱された城門前につながれ諸将の辱めをうける有名なシーンは大津城での出来事でした。
どの門だったのかと調べましたがわかりません。

大津城に家康が滞在したのは京極家が味方であるだけでなく、町衆に安心感があったからだと思っています。
大津は蓮如が本拠をおいた時期があり真宗強勢の町でした。この時代の法主教如は家康を支援しており町をあげての歓迎と安定を作り出していたのだと思います。

                                                                                                            きむらよしのぶ

大津町並み散歩 屋根の上の鍾馗さん

    元々は中国の民間伝承からおこった道教の神さんです。

    日本では魔除けになっています。関東にはないのかな?見たことはないのですが。

    京都が主体ですが滋賀県は特徴的な鍾馗さんが多いです。

    大津町は京都の生活文化を参考にしています。例えば「うなぎのねどこ」と

    いわれる間口の狭い細長い住居様式も京都と同様に大津町の特徴です。

    今回、大津百町の鍾馗さんを探しましたがだいぶ減りました。古い住居が改築と共に

    鍾馗さんをおろしているのでしょう。

    小屋根の上にちょこんと乗った鍾馗さんです。 (赤い○のところ)

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    大きな眼でにらんでいますが、全体にかわいい仕上げになっています。

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        散歩RUNでいくつかの鍾馗さんを撮影してきました。

      ○小さな家に入っている鍾馗さん

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     ○空を見ている鍾馗さんCimg3847_2

     ○仁王立ちなんでしょうか?

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     ○年代ものでしょうか?

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     ○剣をかまえた鍾馗さん ややひょうきんな印象です

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     ○威厳たっぷりの鍾馗さん

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     ○鞘をもっている?

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     ○新しいですね。足元がはっきりしていて重厚です。

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周囲の鍾馗さんや鬼瓦との位置など置き方にも仕切りが色々あるようです。

昔は大変やったんやろうね。今後も収集してみます。

大津籠城戦の八日間 -古都大津no.4ー

大津城籠城戦は関が原の戦いの前哨戦の一つです。大津の町はこの籠城戦で灰燼に帰し城下町から宿場町・商業の町に変化して現在に至っています。今日の大津はこの時から始まったのです。籠城戦の八日間は城側が予想以上の防衛に成功した戦いでした。残念ながら遺跡や当時の資料が残っておらず想像するしかないのですが、町歩きをしながら思いを深めていきます。まずは関が原へ向かう出来事を頭に入れておきます。

Cimg3420_2                                                                    浜大津港にある石碑 本丸跡

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●予備知識 関が原の戦い前夜

 1598年8月 太閤秀吉が亡くなります。
 1600年6月 上杉討伐の為に徳川家康並び諸大名が出陣
      7月 石田三成を中心に西軍が結成され毛利輝元が総大将に就任
         7月19日 伏見城の戦い(08月01日陥落)
         7月24日 家康 下野小山に到着
                   7月25日 家康 従軍した諸大名を招集 いわゆる「小山評定」
               (以前の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-35bf.html)

         諸大名は続々と陣を払い、正則の居城である尾張清洲城を目指し出陣。
         8月10日 三成 大垣城に着陣
         8月23日 岐阜城陥落 織田秀信は高野山へ追放され病没。織田氏本宗家は断絶
         8月24日 秀忠 江戸を出陣
         9月01日 家康 約三万三千の兵とともに江戸を出陣(9/14赤坂着陣)
            そして徳川家康は関が原に着陣後なんと1日で(9/15)勝利してしまいます。

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●予備知識 大津城籠城戦

    1600年8月10日 大津城主京極高次は西軍に参加するため北陸に出発
         9月2日 高次軍は近江国東野より急遽反転し湖上を大津城に戻る(翌朝大津城へ帰還)
         9月4日 籠城の用意を始める。
              兵糧米等、軍船も城内に入れ京町口・尾花川口を堀割りにし関寺口に番所をおきます
         9月6日 町全域と三の丸の侍屋敷の自焼を命ずる
         9月7日 毛利元康を大将とした西軍が攻撃開始
            
              寄せ手は猛将立花宗茂や毛利秀包、筑紫広門等一万五千の兵
              籠城軍は三千

     ーーーー戦闘は11日迄昼夜わかたず行われるが城は落ちませんーーーー

         9月11日 逆に高次軍は夜襲を敢行
               高次軍は赤尾伊豆守・山田大炊が精兵500を率いて攻めかかり存分に暴れ回る
         9月12日 寄せ手の諸将の軍議で堀を埋めること、長等山より大砲攻撃を決定する

              9月13日 大砲攻撃開始 三井寺の背後にある長等山から城内に砲撃
               京の町衆も手弁当で高観音堂あたりに見物にきて大津城に大砲があたると拍手をした。

Cimg3243_2                                                                         本丸跡から長等山を眺める

               立花宗茂軍が一番乗りを果たし三ノ丸、二ノ丸が落ちる
         9月14日 夜 和議締結開城
         9月15日 城明け渡し。早朝老人 女 子供約2、3百人を連れて高野山へ

こうして大津攻城軍は勝利しました。しかし9月15日は関が原で本戦が行われ東軍が勝利。
関が原に向かった立花宗茂は草津で敗戦を知ります。

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●当時の大津城を推定する

資料が残っていませんが想像できる材料はいくつかあります。

①豪壮華麗をうたわれた坂本城からの移築

織田政権時の坂本城は明智光秀の所領です。宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』で豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記しています。
そもそも安土城は坂本城を参考にしたという伝承もあります。
坂本城は天王山の戦いののち、天守に火を放ち落城します。その後数名の城主が入り城と城下町は復興します。
この期間が5年間ほどのようです。のち叡山延暦寺を抑えるという坂本城の役割が終了し廃城となります。大津築城にさいして、城と城下町の建物や石材を大津城に移築しています。
坂本城も琵琶湖に石垣をあらわれていた水城のため多くの資材が活用されたはずです。坂本城も保存遺跡・資料ともに少ないのですが、穴太衆の本拠地ですから、さぞ豪壮な城であったでしょう。
    (以前の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-ea5e.html)

Cimg3544                                                             参考:西教寺総門 坂本城遺構 

②国宝彦根城天守は大津城からの移築
    
国宝彦根城の天守は大津城から移築されました。現在は三層になっていますが大津にあった当時は四重五階でした。籠城戦の最後は本丸にこもって戦っています。本丸の規模は彦根城程度の規模であったかもしれません。

Cimg0850_2                                                             参考:彦根城天守 

③湖に突き出た本丸跡

大津城の資材は膳所城や彦根城などに転用され、町は性格を変え商業都市になりますから堀の埋め立ても進み、城郭の縄張りを感じさせるものは残りませんでした。
江戸・明治期の地図をみると本丸跡が琵琶湖に突き出ており往時をしのばせます。参考に水城で有名な今治城の写真を用意しました。湖上からみたらこんな感じだったのかもしれません。

Photo                                                                          参考:海岸平城 今治城 
④縄張り推定図

明治以降に3つの城郭図が描かれています。

Cimg3149_2                            その一つ 昭和4年(1929)『京都連隊区将校団郷土戦史』第二巻付図の「大津城攻防戦闘要図」
                      
大津籠城合戦記の記載を地図に落としたもの。諸将の名が見え臨場感が沸きます。

    Cimg2817_3                                                    大津町古絵図 「模式図」

その3つの資料や江戸時代の大津町古絵図を参考に、昭和55年(1980)発刊『新修大津市史』第三巻の「大津城復元図」において大津城の姿が復元されました。

☆大津城縄張推定復元図

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現在この図は市内の数箇所に掲出されています。現地の痕跡を訪ねてみましょう。

□□大津城を歩いてみる□□

○中堀 西側 現:川口公園

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昭和31年まで堀が残っていました。かなりの幅があるのがわかります。

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○中堀 南側 長等二丁目 東西に走る通り

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推定復元図を参考にすると真ん中の通りと両側二軒ほどの幅です。

右側が二ノ丸、本丸方面。本丸に向かって下っていることがわかります。

○外堀 石垣 ほとんど唯一の遺構です 大津祭曳山展示館の並びにあります。

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外堀の外側の石垣だとすると、撮影している私は堀の中か城内三之丸。

このままなら、攻城軍から打ち下ろされますので、三之丸は相当高い石垣があったのでしょう。

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■籠城戦八日間の理由

五倍の敵を相手に八日間の籠城。兵力差からすると京極高次は大健闘をしました。当時の軍は大砲を常備していませんでした。当初から西軍にあればもっと早く落ちたかもしれません。同じ時期におきた丹後田辺城の戦いにも共通していますが、西軍の戦闘意欲にも問題はあったかもしれません。総大将に毛利輝元を立てていますが、求心力があったかどうかは疑問です。大津攻城軍も主将は毛利元康でした。毛利元就の七男で歴戦の将です。
しかし、攻城軍には豊臣の旗本衆七手組や七本槍の片桐且元も参加しています。それぞれの思惑が働いたのではないかと思います。 

別の視点で大津城の地形を調べてみました。本丸が坂の下にある立地が気になったので高低差を調べてみました。
現在の地形からの算出ですから当時と同じではありません。 

○城の高低差

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本丸と外堀の外側との高低差は10mほどあります。この城は外から「見下ろせる」城です。 寄せ手の戦闘意欲に問題があったとしても日数がかかるようには思えません。実際、三之丸が落ちると即日二ノ丸も落ちています。
三ノ丸はよほど堅固にできていたのでしょう。相当な高さの石垣が用意されていのかもしれません。

Cimg0812_2                                                                       参考:彦根城 中堀

最後に外堀です。外堀の東西、浜町口・尾花川口は琵琶湖に面した低地にある為、堀に琵琶湖の水を入れることは可能だったでしょう。しかし、南側まで琵琶湖の水を取り込むには相当な掘割をしなければならず、空堀だったのではないかと思います。堀に満々と水を満たすほどの川もありません。現在の琵琶湖疏水が参考になるかもしれません。。。。。。

長い記事になってしまった!!

                                                 きむらよしのぶ

港 大津 -古都大津no.3ー

■琵琶湖の湖上は「高速道路」

京阪浜大津駅を降りると琵琶湖が広がります。

琵琶湖が現代の関西に与える一番の影響は「水」でしょう。周辺自治体に与える影響は大きい。

瀬田川洗堰をとめると下流にある自治体は水不足になります。そんなことをしてはいけませんが。

歴史上の琵琶湖はもっと多様な役割を果たしていました。

一番大きかったのは「物流」であり物の流れにあわせた「交通」でした。

奈良・京都に政権があった時代、大津は都に向かう「人」「物」の最後の集約地でした。

北陸からやってくる物資は敦賀から琵琶湖に出て、現在の長浜市にあった船着場から大津に向かいました。

また中山道(古代は東山道)、東海道の物資も草津にあった船着場から大津を目指していました。

街道を行くより効率がよく湖上の船便は現代の高速道路のようなものだったでしょう。

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○京阪浜大津駅

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○浜大津駅から琵琶湖を眺める

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○浜大津港 湖西を俯瞰できます。これから向かう史跡の場所を眺め見ながらスタートをきりましょう。

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現在の浜大津港は観光遊覧港で昭和になり埋め立てが進み公園化されました。

浜大津港から近江大橋に向かって「なぎさ公園」となり大津市民の散策やイベントでにぎわいます。

時間があれば観光船ミシガンで南湖をまわるのは抜群です。湖上を行き交った先人の気分が味わえます。

○ミシガン

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湖上交通と漁業の中心であった港町の面影はこの地にはありませんが、装いを新たにした琵琶湖を感じ取れます。

■なぎさ公園

○打出浜の常夜灯とレストラン 

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浜大津港を含めて湖岸は「なぎさ公園」として整備されています。ほとんどが埋立地です。江戸時代の汀線は現在の湖岸道路の西側にあったでしょう。

高い建物が少なく夏冬とも特徴的なので四季が身近に感じられます。浜大津港から打出浜あたりまで足を伸ばしてみると湖上の景色が変わって味わい深い。

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京阪浜大津駅から石場駅まで電車で移動して戻っていくものよいかもしれません。ゆっくり歩いて30分程度です。

古代の大津は渡来人の里 -古都大津 no.2ー

○大津市  地図の水色の部分が大津市

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■渡来人の里

古代の滋賀県はたくさんの渡来人が展開していました。特に大津市の大半で渡来系氏族の痕跡が発見されています。中国、朝鮮半島から日本に移住した方々です。

こうした渡来系氏族は漢字、仏教などを持ち込んだ技術者集団で、国内に大きな影響を与えました。

官僚としてだけでなく、王家との姻戚関係もでき政治的にも重要な役割を果たしていきます。和邇氏と息長氏が著名です。

現在の大津市域は当時滋賀郡と呼ばれ真野郷、大友郷、錦織郷、古市郷の4つ地域にわかれていました。現在の地域にすると以下のようになります。

  真野郷は堅田周辺 

  大友郷は坂本周辺 

  錦織郷は大津京駅周辺 

  古市郷は石山周辺

真野郷は和邇氏の本拠ですが、他の3郷はすべて渡来系氏族が展開した地域でした。

もっとも和邇氏も前時代の渡来系氏族と考えるむきもあります。

幕末・明治の初めに外国人居留地が出来ましたが、古代の大津はこうした居留地のような先進で高い文化をもった地域だったのでしょう。

首都圏の横浜のような存在だったのかもしれません。

予断ですが9世紀前半に編集された『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)では、約1/3の氏族が渡来系となっています。

大津から全国の様々な地域に展開をしていったのかもしれません。

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■古代大津の人口は1万人?

7世紀ごろの人口に興味を持っています。人口推定は当時の集落や都市を想像するのに無可決です。しかし、多くの説がありいまだ確定には至っていません。

私はいくつかの説の中で「人口400万人」説をとっています。

現在人口は1億2800万人ですから約1/32です。

大津市の2012年1月1日時点の人口は約34万人。

単純で乱暴ですが、現在人口に上記の比率を掛けると古代大津の人口は約1万人となります。

近江大津宮ができた頃はこの程度ではなかったでしょうが基盤になる人口はこんなものかもしれません。

発掘調査に基づく市内の古墳群を見ると40程度の大集落があったのではと想像しています。

『人口300名程度の“40ほどの村”が点在する』のが古代大津の姿だったのではと思います。

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能書きが長くなりました。次回は浜大津から北上していきます。

古都 大津 no.1

京都から山科を経て西大津バイパスに入りトンネルを抜けると、琵琶湖が鮮やかに広がります。

○バイパス途中から浜大津港を眺める

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京都三条からは車で20分、距離にして10kmです。

始めて、この景色を見たのは18歳のとき。

突然あらわれる琵琶湖のキラキラした湖面と青い空が大きな開放感をもたらせます。

その後仕事、生活共々に滋賀県に縁が出来、既に20年近くを過ごしています。

昨年末から時間が出来たので、改めて市内を訪ね歩きました。

豊かな歴史資源、ほかにはない自然。この魅力を改めて紹介したいと思いました。

しかし、どこから話を始めるか大変迷っています。

唯の観光案内にはしたくないし、専門的すぎても伝わらない。

出来るだけ臨場感を大事に紹介をしていくことにします。

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◆全国第10番目の古都指定

古都指定を受けているのは京都、奈良、鎌倉、逗子など史上政権が置かれた都市ばかりです。

大津市は天智天皇の近江大津宮、淳仁天皇の保良宮など都が置かれた時期がありました。

また平城京、平安京政権の資材資源と人材供給源の意味が大きいと思います。

人材面では大陸からの渡来人が定着し勢力を持った地域でもありました。

さて、これから数回に分けて大津市湖西南部(大津北郊地区)から紹介をしていきます。