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名所・旧跡・史跡

畠山義就、細川藤孝、明智光秀の居城 勝龍寺城跡

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この城は応仁の乱の主役の一人、畠山義就の居城でした。応仁の乱に注目があつまっていますが、こんなところに出会いがあるとは不思議です。

その後、織田信長の時代に細川藤孝の居城となり、明智光秀が山崎の合戦の本拠にしたことで歴史上に名を残すことになります。

犬川と小畑川に挟まれた場所に築かれた城です。京都への侵入を防御する役割がありました。

縄張りを見ると中世の屋形風の城が見えてきます。
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JR長岡京駅からスタートします。10分ほどで土塁跡につきます。
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ゆっくり10分ほど歩くと土塁跡につきます。神足神社にあります。
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真ん中の小丘が土塁跡です
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土塁上から空堀を眺める。
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整備前と整備後の比較写真がありました。
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高さ約6mとのこと。見ごたえがあります。

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ここから本丸跡はすぐです。公園化されています。公園名は勝竜寺なんですね。
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模擬塀と櫓です。土塁だけでなく石垣も使っていたようです。
本丸跡と岩田丸が残っています。
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城内は公園になっています。櫓などの建物も疑似的なものばかりです。

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北門跡と沼田丸との境の石垣
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沼田丸も公園です
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中世の屋形をイメージして訪れるとしっくりくると思います。この後山崎の合戦の古戦場に向っても15分ほどですから、いい歴史散策になります。


■勝龍寺城跡

所在地 長岡京市勝竜寺
アクセス JR長岡京駅より徒歩10分

太田道灌の城 都旧跡 稲付城跡

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作延城跡

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自宅からランニングで作延城址にいきました。
JR南武線津田山駅から10分程度ですが、大型霊園である緑ヶ丘霊園の中ですので、わかりやすいです。駅を出ると坂を上ります。
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霊園の入り口までは5分程度です
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霊園に入ると管理施設を右に見ながら登っていきます。

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園内の地図です。区画は6区のようです。
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わかりやすく案内版もあります。
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登り切ったあたりが6区です。写真をとり忘れましたがビューがいいです。
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ここから北側にいくつかの城跡がありますがビューはここで一番です。桜もいいと聞きました。

池尻に海が迫っていた時代 東山貝塚遺跡

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縄文海進がもっとも進んだ6000年前の目黒は目黒川に海水が入り込み、現在の池尻あたりは入江のような場所でした。 今も中目黒から池尻あたりを散策すると谷底のような印象を持つと思います。地図の白い部分はこの時代、海だったろうところです。

東山貝塚遺跡はこうした海岸線にあります。 貝塚だけではなく住居跡もあり、生活感のある遺跡です。 土地の高低差を楽しむのも貝塚の魅力です。

目黒区の遺跡解説を見るとかなりの規模だということがわかります。

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あくまでも模擬施設です。

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こうした公園が出来ているだけでもありがたいです。子供たちに学んでほしいものです。

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このイラストは面白い。奥に富士山、手前の水辺は現目黒川のようです。

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近江大溝城跡

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京極高次とお初で売っているようです
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このルートを進むと本丸跡にいたります。ちょっと心配になります。

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分部神社の横を内堀沿いにあるいて天守跡に向います。小ぶりです。
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そうするとすぐ本丸跡です。崩れ果てた石垣が登場します。
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信澄の築城なのですね。
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江戸時代は2万石弱の土地だったようです。城主だった分部氏に知識がありません。
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物悲しいですね、この石垣は。湖北を管理する水城だったのでしょう。
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5世紀乙訓の支配者 国史跡 恵解山古墳

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乙訓古墳群は11基の古墳が平成28年に国の史跡指定を受けました。その中で最大規模なのが恵解山古墳です。

墳丘から南側を。向って右の山は天王山です。
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墳丘は三段になっています。
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スケールのある標柱です
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後円部はお墓になっています。
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多くの鉄製武器が発掘された珍しい古墳です。この地域の支配者だったのでしよう。
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たくさんの武器も出土しました
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鉄製品が700も出土しました。大変珍しいものです
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丁寧に保存された古墳です。メンテが大変です。
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古墳の名称の由来が知りたいのですが、みつけられませんでした。
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明智光秀 本能寺から明智藪までの11日間

1582年6月2日 光秀軍は本能寺を襲撃し織田信長を打ち取ります。

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翌日3日、光秀は信長の本城である安土城に向いますが、瀬田川を守る山岡景高が瀬田の唐橋を焼き抵抗します。

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光秀は瀬田から領地である坂本城に入ります。


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中一日で橋を修復し、

6月5日、安土、長浜などに進軍し、抑えにかかったようです。

6月7日、勅使が安土に到着します。戦勝を祝す内容だったようです。

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一旦、坂本城にもどります。

6月9日、光秀は京都に入ります。

近江を押え、大和は筒井家との接点もあり、京都北部は自領でもあったわけで、順調に抑えていったはずでした。このあと、河内の抑えに入ります。

おそらくこの頃に羽柴秀吉の進軍情報を得たと思います。大軍の進軍ですから、少しずつ情報は入っていたと思いますが、確報を得たのは11日ぐらいではないでしょうか。

秀吉軍は6月11日に尼崎に到着しています。

ここまで光秀は十分な手を打ったはずです。後手に回ったというより秀吉が時を得たのだと思います。

6月13日、そして山崎の合戦です。

兵数は半分とも1/3ともいわれる兵力差です。光秀は淀城や勝竜寺城を修復しそなえたようですが、要害でもなく時間もありません。12日から局地戦はおこなわれていたようです。

13日夕方、本格的な戦闘が始まります。

(光秀本陣の古墳上から天王山を望みます)

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(古墳上にある山崎合戦の説明版)

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明智軍の陣地跡に石柱がありました。当時の地形がわからないのですが、川を前にした高台の陣です。

序盤は明智軍が攻勢でしたが、秀吉軍が東側の淀川河畔から側面をつき前線が崩壊し、明智軍は敗れ去ります。

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一旦、勝竜寺城に後退した光秀ですが、兵の離脱も多かったようで坂本城への撤退を偽なくされます。

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そして途中の山科小栗栖の竹藪で、落武者狩りに襲われ生涯を終えます。

敗者は歴史をつくれません

山崎合戦古戦場 明智陣

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新しい歴史標柱が増えました

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織田信長公本廟 阿弥陀寺

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鴨川ランの途中ちらっと見た地図に本廟を発見し、立ち寄りました。
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信長公の墓は全国にたくさんあるが、本能寺の変のあともっともはっきりした事実で埋葬されたのはこの阿弥陀寺です。

阿弥陀寺 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町

立川市指定史跡 大和田遺跡

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