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鳥羽伏見の戦い2 伏見街道 伏見奉行所跡 会津藩・新撰組奮闘の地

 

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鳥羽街道で押し問答が続く中、薩摩隊からの発砲が時代の転換点となりました。
鳥羽街道を進む徳川軍の主将、大目付滝川具挙はこの発砲に驚き逃げ戻ったといわれてます。

滝川家は戦国時代織田信長に仕え五人の家老の一人として関東攻略戦を担当していましたが、信長の死ともに撤退しその後の秀吉との戦いにも敗れ子孫は徳川旗本として家名を残すのみになりました。

子孫が幕府の最後に関わりを持つのは皮肉なものです。

さて、鳥羽街道での発砲から戦闘が始まり、御香宮に展開していた別の薩摩隊が伏見奉行所に向けて発砲を開始します。

鳥羽伏見の戦いは近接する、二つの地域での戦闘でした。

伏見奉行所に陣取る主力は会津藩と新撰組でした。徳川軍の意気は高かったでしょうが洋式武装した薩摩軍の敵ではありませんでした。

薩摩軍も必死だったでしょうね。ほぼ一藩で天下の軍を相手にして火ぶたを切ったわけですから。

伏見奉行所跡は団地になっています。

伏見は巨椋池を南にして湖沼を俯瞰する高台にあって都の入り口であり、離宮も存在した地域です。豊臣秀吉が3つの隠居城を構えたことで歴史上欠かせない土地になりました。

徳川幕府の時代には京の入り口の宿場として発展をします。

最近は坂本竜馬由来の寺田屋さんも人気です。余談が過ぎました。

3日間にわたって戦闘が行われますが、薩摩軍から錦の御旗が出たことで徳川軍の腰が引け撤退をします。

徳川軍の首脳はこの戦に意味が分かっていなかったのでしょう。

今に残る銃弾の跡が「魚三楼」に残ります。残っているのはこれだけです。歴史の転換点が銃弾跡だけとはさびしいものです。

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◆鳥羽伏見の戦い 伏見奉行所跡                   2016年6月20日撮影
                                                                      
所在地 京都市伏見区

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