無料ブログはココログ

« 2015年7月 | トップページ | 2015年11月 »

2015年9月

弥生時代の大型集落跡 大中の湖南遺跡

滋賀県近江八幡市と東近江市能登川町大中にまたがる弥生時代中期の遺跡です。発見された場所は大中の湖といわれた内湖のほとりでした。

Cimg9895_2

まずは遺跡の場所です。
Map
大中は昭和に埋め立てられた干拓農地です。何度か水中と地上を行き来している地域です。直近では昭和時代に埋め立てられ現在に至っています。

以前は以下のようになっていました。
(紀要第15号 2002年 「大中の湖南遺跡出土土錘について」 より
Photo_31

この遺跡は車でしかいけませんが、ややわかりにくいので訪問時は注意が必要です。
この時期雑草が生い茂り、遺跡に足を踏み入れることはできませんでした。

真ん中にあるのは復元された竪穴式住居です

Cimg9883_2
道を挟んで反対側に説明版があります。こちら側も雑草が生い茂っています。
写真の真ん中に雑草に埋もれた説明版が見えますがとても入れませんでした。
Cimg9889_2
説明板

Cimg9887_4


矢板や杭で管理された水田をつくって吹田線を橋で行き来していたとは。

現代でも海外では同じような農耕を行っているケースもあるかもしれません。



















Cimg9885

Cimg9886_2
現地で確認できることはこれだけです。安土城考古博物館に掲出されているようです。

◆滋賀県 大中の湖南遺跡

 滋賀県近江八幡市と安土町にまたがります

                                                         木村嘉伸

古代、和邇氏の繁栄を思い起こす 大津市 春日山古墳群

(古墳群より琵琶湖を眺める)
Cimg9752_3

古代の有力豪族に「和邇氏」」がある。皇室から臣籍降下した皇別で和邇氏は奈良に拠点を持ち後に春日氏を名乗る。春日山の由来に関係するのでしょう。

和邇氏は滋賀県にも勢力を有します。現在の滋賀県大津市堅田付近です。琵琶湖が最も狭くなるこの地域は交通の要衝として重要でした。早くから半島系の人々が住まいしていましたが、皇族に近い豪族が進出し新たな地盤づくりを始めたのではないかと思います。

古代の滋賀県は海外への窓口のような華やかな地域でした。

-----------------------------------------------------------------------------------------------
●春日山古墳群

Map_2



はっきりとしはしないが古代和邇氏の勢力を想像させる古墳群です。大小200強の古墳からなります。

Map
・JR堅田駅から西に15分程度の小丘陵に存在します。
Cimg9746
公園全体に古墳は存在しますが、古墳ゾーンとして整備されているのは一画です。
Cimg9748
少し味気ない
Cimg9771
正面の森は古墳群です。
Cimg9769_4
右に展望台があります。堅田の町が見えます。
Cimg9766
古墳の整備は難しいですね。雑草茂る公園にしかみえないのが悲しい。
Cimg9759_2
200以上の古墳がひるがっていて公園の近くだけが国史跡に指定されています。
Cimg9760_4
機会を見つけて歩いてみます。


◆春日山古墳群

大津市真野谷口町
                                                          木村嘉伸

足利将軍の居住地で政治の舞台 『室町第址』

足利政権の3代義満から13代義輝が居住し政治を行ったのがここ室町第です。
江戸城や御所と比較するとかわいらしく思えます。私だけかな。

時代により規模は異なるようですがだいたい地図の囲みと想定されています。
石柱や表示看板は3箇所にあります。

Photo_2

1. 同志社大学内寒梅館 発見された石敷き遺構            (2015.09.05撮影)
Cimg9742_4
Cimg9742_2
Cimg9742_2_2
Cimg9742_3
Cimg9742_4_2

Cimg9744_5


2.大聖寺内 石柱 花の御所 
Img_7
3.室町第址  室町今出川の東北角にある石柱                                              (2013.05.15撮影)
Img_0941

日本の中央集権的管理体制は中大兄皇子の時代に始まり、平安時代に入り日本流にアレンジして定着したと考えています。

鎌倉時代は武士階級が土地支配に参入した画期的な政権体制でした。地頭による実質的な支配体制が確立しました。

室町時代は鎌倉の管理体制を引継ぎつつも守護に権限がうつり、足利家は経済運営とステイタスで緩やかな支配を行いました。

当時の人口推計は約800万人とのことです。現在との比較だと7/100です。

現在だとこの程度の役所はたくさんありますが当時は驚きの規模だったのでしょう。

◆足利将軍室町第址

京都市上京区室町今出川
                                                         木村嘉伸

京都を壊滅させた 『応仁の乱勃発の地』

京都市の都市計画は平安京の建設によってもたらされた。

しかし、当初より人口数や収益構造等の実態にあわない規模であった為早々に平城京に戻る議論が起こります。とても維持ができなかったわけです。

まず右京が衰退します。右京の南部は桂川に近く低湿地が多く初めから開発が困難でした。そして鴨川周辺の市街地化が進みます。現在のカタチになってきたわけです。

1467年京都を壊滅させる出来事が起こります。応仁の乱のはじまりです。

11年続く応仁の乱で京都市街は灰燼に帰します。太平洋戦争ので空襲被害を受けた東京や大阪の写真を見ることがあると思いますが、あんな様子だったはずです。

戦国時代に入りなかなか町は安定しませんでした。

現在の都市設計になったのは応仁の乱の約100年後に登場した豊臣秀吉の時代でした。

このことは以前のお土居の記事で。

   京都市の史跡 史跡御土居3(北区紫竹上長目町・堀川町、上京区寺町広小路)
   http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/3-af78.html

   京都市の史跡 史跡御土居(中京区西ノ京)
   http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-3ac1.html

   京都市の史跡 史跡御土居2(上京区馬飼町·平野鳥居前町)
   http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-7f90.html

さて応仁の乱が始まったのは現在の京都市上京区にある上御霊神社でした。
上御霊神社の南には相国寺、花の御所がひろがります。室町幕府の中心的地域だったと思います。

史上これほどわかりにくい争いはない。あまりに利害関係が入り乱れ、裏切りが多く節度のある関係はほどんどみられない。戦は東北を除く全国に広まります。最後は誰もがバカバカしくなり本拠地に戻って戦いは終わります。

Img_0937
Cimg9737_2

案内板の解説では併せて約五千名の戦いとありますが当時の人口でこれほどせの人数にはならないと思うので1/10程度の小競り合いだったのではと推測しています。

Img_0934_2Img_0933_2Img_0928_2

                                ※この3点は2013年5月18日です。お祭りの日でした。


その後の歴史を頭に描きながら境内を散策してみます。ここから戦国時代が始まると思いながら。

◆応仁の乱勃発の地 上御霊神社

  所在地 京都市上京区上御霊前通烏丸東入
        地下鉄烏丸線鞍馬口駅 : 徒歩3分
Photo

« 2015年7月 | トップページ | 2015年11月 »