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2013年9月

群馬県太田市の国史跡 上野国新田郡庁跡(天良七堂遺跡)

笠懸町との縁が出来たは10年前。一本の電話から今も続く大事なクライアントとの御付合いが始まりました。私は車に乗れないので空いている時間に散策もできず縁のわりには立ち寄りをしていません。これからは時間を使って“遊びたい”と思います。

●古代の新田
足尾山系と渡良瀬川が作り出した大間々扇状地は北関東を代表する規模を有しています。地形を見ると利根川に向ってゆっくりと下っています。次の地図は現在の遺跡地がと等高線図を比較したものです。遺跡地図のブルーの線の内側が等高線図の地域です。

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この地域は湧水が多く、農地開拓にも適しています。

都から東国へ伸びた幹線道路東山道は内陸を通って、この新田にも通じていました。現在は東海道がメインルートですが当時は大河に架橋する技術がなく、安定した東山道が使われていました。
大化の改新以降の国政改革の中で群馬県は上野国となり現在の太田市・みどり市の一部が新田郡となりました。

平成に入り当時の郡庁遺跡(市役所のようなもの)が発見されました。

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●天良七堂遺跡

遺跡は市役所である「郡庁」と周辺の官庁街である「郡衙」そして官制道路である東山道などを総称して天良七堂遺跡とよぶ。史跡指定は郡庁で上野国新田郡庁跡となっています。郡庁の規模は国内最大で史書からも裏付けられています。
・解説板より 郡衙・郡庁の説明
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・新田郡庁の広告写真 現地解説板から
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・新田郡衙全体図 太田市役所HPより
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遺跡は600年代後半から800年代にかけてのものです。都からつながる東山道はここから二つの方向に分かれます。東北に向うルートと南下し武蔵国庁(現在の東京都府中市)に向うルートです。分岐点になる街でしたから当時は賑やかな街であったはずです。
平成20年から始まる発掘調査はまだ継続しているようです。

さて遺跡に足を運びます。発掘後埋め戻されたままですので、資料を見ながら確認していきました。


・現在の郡庁跡 
 郡庁の南西角に解説ツールが掲出されています
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まだ調査中だからか、さみしい光景です。
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柱の跡は物悲しい
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ちょっと残念。。。

■国史跡 上野国新田郡庁跡

所在地  群馬県太田市天良町
アクセス  東武伊勢崎線治良門橋駅徒歩10分
                                             木村嘉伸

神奈川県伊勢原市の史跡 太田道灌の墓

太田道灌は江戸城の築城者として有名ですが、彼の事績の中では重要なものではありません。

実質、関東最大の実力を持ち、文治共に時代の英雄でした。当時の関東の出来事には頻繁に名が登場します。

しかし、残念なことに正確な事績が確認できずに伝承の域をでないものもまた多いのです。

伊勢原市の東海大学病院に立ち寄ったので、ついでに太田道灌の墓に立ち寄りました。

道灌は中世の枠組みの最後の英雄です。中世は武士が世に出た時代で、源氏と平氏の争いから源氏が勝利し、鎌倉幕府、室町幕府が成立していきます。

道灌は関東を支配した関東管領上杉家の一族扇ガ谷上杉家の家宰です。足利幕府は、前代から武家の本拠地であった関東を大事に考えたのか、「公方」という将軍の権限を分与した実質的な関東独自支配を容認したかのような地方支配体制をつくりました。

関東管領は関東公方が支配する地域政権の“首相”という存在です。時代が過ぎ、下克上の時代になりました。関東公方は力を失い、関東管領が力を付けましたが、関東管領も内紛で分化しその部下たちが実質的な支配者になっていきます。

この流れが戦国時代に繋がっていきます。その分岐的にいて、変化する旧時代を矢面に立って支えたのが道灌です。道灌の事績は今後追いかけていきます。
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・MAP
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この地域は車社会ですが、私は相変わらず交通期間と足です。東海大学病院から歩いて15分ほどで首塚につきます。

■太田道灌の最後

主家の為に戦った道灌でしたが、人生の後半には冷遇に不満を残していたようです。

最後は主家である扇ガ谷上杉定正に暗殺されます。暗殺の理由や当日の模様はさまざまに伝えられています。「当方滅亡」との最後の言葉も有名です。

扇が谷糟屋屋敷に呼ばれた道灌はこの屋敷で暗殺されますが、場所は特定されていません。

墓や首塚もいくつかあります。そのうちの一つにいきました。

●首塚
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本物かはわかりませんが、墓石は時代はあっているようです。
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・菩提寺の大慈寺
道灌が再興した寺です。そんな縁で菩提寺になっているのでしょう。
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この地域の英雄で、祭りまで行われる人物の墓としては悲しい限りですが、道灌の歴史的な評価そのものがこの実態なんかと思います。

機会を作って他の遺跡もまわります。

■太田道灌の墓(首塚)

伊勢原市下糟屋346-1※大慈寺の住所
小田急小田原線伊勢原駅北口より神奈川中央交通バス「粕屋下宿・小金塚経由愛甲石田駅行き」の「中沢中学校」バス停より徒歩

                                              木村嘉伸

桂川が増水した嵐山 台風18号の被害

気象庁の発表では「数十年に一度」の雨量とのことで大雨警報、避難指示がでていました。

●渡月橋もえらいことに

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●中之島

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●下流の下鳥羽のあたりで氾濫しています
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私は鷺沼の自宅。12時頃に台風が通過するらしい。えらい風です。

2013年9月16日 きむらよしのぶ

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