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2013年1月

栃木県足利市の史跡 足利氏宅跡(鑁阿寺)

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源氏の嫡流で室町幕府を成立させた足利氏の館跡です。八幡太郎源義家の三男義国が足利を領したことから源家足利氏がスタートします。

源義国は荒々しい気質だったようで生涯いろんなところでぶつかり、源家の主流から外れ足利に居を移し下野国の開拓に生涯を傾けます。足利荘は彼の時代に成立します。

義国の長男は新田荘を相続し、二男義康が足利荘を引き継ぎます。義康は院のおぼえもよく将来を嘱望されていましたが31歳の若さでなくなります。

足利を世に出したのは義康の子義兼です。早い時期から源頼朝と接触し蜂起の初期から参加します。政子の妹を妻にしたことで将軍の一門の扱いをうけます。
その後、北条氏とも縁戚となり幕府の有力大名となっていきます。

この場所に館があったのは義兼の代までのようです。義兼は全国に所領があり普段は幕府の重鎮として鎌倉に在住しています。本拠地ではあるものの足利に足を運ぶことは少なくなったはずです。義兼の次代義氏は鎌倉で生まれ鎌倉育ちだと思います。こうした背景から本拠の邸宅を整理し伽藍となしたのが現在の鑁阿寺です。

寺となっていますが周囲を堀と土塁をめぐらし中世の館の面影を伝えています。日本城郭協会が設定した日本100名城の一つです。


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新田荘にはこの時代の城郭をがいくつか残ります。興味のある方にはたまらないはず。ちなみに私ははまっています。

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縮尺はバラバラですが当時の気分を表す3つの城郭です。余談でした。


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参道を通り正面から眺めていきます。
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寺内に入り山門を振り返りました。
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重要文化財の本堂です。
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伽藍の屋根には二両引きの足利家の紋が鮮やかに。
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こちらも重文の経堂
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大銀杏がなかなかよい
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西門
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東門
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平安時代の足利を想像することは難しい。しかしこの地から興った武士団の一人が京都に上って天下を制したと思うと感じさせるものがあります。

■足利市邸宅跡 鑁阿寺

 栃木県足利市

                                          木村嘉伸

火怨・北の英雄 アテルイ伝

BS放送で既に全4回のうち3回がおわりました。

アテルイ(阿弖流為)は平安時代初期に東北に実在した豪族の長ですが存在を示す史書の記載はあるものの、記述は少なく事績も人物像もはっきりしません。


天下の軍を相手に戦を行ったこと。
一度は押し返すものの最後は投降し京の都で首を討たれたこと。

この程度しかわかっていません。東北支援が制作の背景でしょうがよくドラマ化したと感心しています。

アテルイは当時、蝦夷(えみし)といわれた朝廷の傘下には属さない部族の長。奈良時代末期から平安時代初期は王朝の基盤が整った時期ですが、都や王家の規模が大きくなり版図を拡げて税収を確保することが必要になってきました。

いつの時代も同じですね。西日本、九州と制圧して遂に東北制圧にのりだしたのです。 蝦夷は朝廷に反乱を起こしたので剽悍な印象を持たれますが、現代の東北人と同様に穏やかな気質だったようです。

また東北地方の生産性は低いはずですから人口も少なかったでしょう。 とても勝利は期待できなかったと思います。

蝦夷地といわれた北海道、鎌倉時代の藤原三代の終焉など同じような弱者の歴史は繰り返されます。

世界ではピサロのインカ帝国の征服もそうです。

弱者の歴史は悲しいものです。


ところでこのドラマです。中途半端な設定でロケもよくない。人物像の設定も見えなくて残念です。

とはいえ最終回に期待しています。

                                          木村嘉伸

新横浜で凧揚げイベントやっていました

凧揚げができる場所が少なくなりました。私のまわりを見回しても学校の校庭ぐらいしか見当たらない。上げたことのない子供が少ないのではないかなぁ。

13日は新横浜の日産スタジアムに併設する新横浜公園で凧揚げイベントがありました。
簡易な凧作りのあと、広場を凧揚げで走り回っている沢山の子供たちでいっぱいでした。

私はランニング途中の立ち寄りでしたが、こうした過去の文化を地域が支援する動きは素敵です。
おしむらくは見本になるような凧が上がっていないこと。滋賀の八日市の凧は全国的に有名ですが、規模も歴史も違うものの参考にされてはどうかと思いました。

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                                            きむらよしのぶ


大河ドラマ「八重の桜」を見て柴五郎大将に思いが至りました

『ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺言』という本があります。幕末の会津藩に生まれ明治後は陸軍に入り大将になった柴五郎大将の手記を編成した名著です。

会津戦争から斗南藩に至る会津藩の悲劇が語られています。幕末の会津藩は京都所司代時代の新撰組との関わりや会津戦争の白虎隊の自決で語られることが多いのですが、それは悲劇の一部でしかありません。

会津戦争で敗戦し藩は降伏します。街には藩士の死体が放置され埋葬どころか手をつけることさえ認められません。半年以上、親族の死体に鳥獣が群がっているのをなすすべなくみていたのです。

藩は改易にはなりませんが、青森の不毛の地に斗南藩として存続することを余儀なくされます。極寒の地で廃藩置県までの3カ年をたくさんの悲劇ともに過ごしていきました。

会津藩は朝敵として厳しい時代に入ります。昭和3年、松平容保の孫が大正天皇の第二皇子秩父宮妃となります。旧藩士は復権をしたと感涙したといいます。戊辰から実に60年が経過していました。

中学の頃に読み始めました。幕末最大の悲劇は歳とともに思いがこもり涙がとまりません。

柴五郎はその後、義和団事件で世界に武名を知られ、会津の心を自決した最後まで持ち続けた達人です。

大河ドラマの初回を見ました。会津出身の新島八重の物語です。どういうわけか概述の著作に思いが至りました。

どんな展開になるのか? 会津の悲劇を引っ張るとわかりにくくなるかもしれません。

しかし楽しみにしています。
                                                 きむらよしのぶ

会社のみんなで初詣 豊川稲荷東京別院

1月5日始発で大津から渋谷に戻りました。今年は5日土曜からのスタートです。午前中だけで終了です。全員で向かいました。

昼からは個々人の予定があったので、比較的近い赤坂の豊川稲荷に向かいました。豊川稲荷は昔は赤坂一ツ木にあったようで、明治20年に現在の場所に越してきました。
今回知ったことですが、名奉行といわれた大岡越前守忠相が帰依し子孫が屋敷内に勧請したのがはじまりです。大岡家の歴史に豊川が関係するのかもしれません。

・青山通りの歩道橋から青山一丁目方向を眺めます。車が少ない。

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向かって右に続く森は東宮御所です。

豊川稲荷の対岸にはとらやさんがあります。室町時代に京都で産声を上げた羊羹やさんです。
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豊川稲荷に入ります
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・解説板Cimg0497
・山門

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・本殿 拝殿かな? 確認忘れたCimg0472_2
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・うちの人たちですCimg0487
・お稲荷さんですかねCimg0481
この後、赤坂で寿司を食して熱燗で一杯やって三々五々でした。今年もスタートしました。
                                     きむらよしのぶ

東海道最大の宿場 大津 -古都大津no.5ー

■東海道最大の宿場 大津宿

10月に行われる大津祭。京都の祇園祭を継承して江戸時代に製作された13基の曳山が町をめぐります。

            ○大津祭 曳山


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            ○以前の投稿記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/2010-26af.html)

曳山は江戸時代の大津町の財力をよくあらわしています。

大津籠城戦で灰燼に帰した大津町は城下町から役割を変えます。

①宿場町 ②湖上・街道を活用した物流・商業の基点 ③園城寺の門前町

こうして大津は大きな成長を迎えます。

宿場大津は東海道一の規模でした。

天保14年(1843年)当時、

   長さ 東西16町51間(約1838m)・南北1里19間(約3962m)、

   人口 14892人、家数3650軒、本陣2、脇本陣2、旅籠71軒。

中山道最大規模を誇った本庄宿が人口4554人・家数1212軒ですから全国でも有数の都市だったかもしれませんね。

■京都ー大津間の峠越え 車石

旧東海道を京都三条大橋から出発し山科駅周辺をすぎると追分という集落が登場します。この地が大津宿の京都側の境になります。

            ○横木町にある旧東海道map(国道一号線で旧東海道は切れています)

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追分の語源は道が二つに分かれるということで、大津市の追分は東海道と伏見街道の分岐点です。

            ○追分の石柱(みぎハ京みち、ひだりハふしみみちとの記載)

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豊臣秀吉により大津城が築かれたのですが、その理由がこの伏見街道に求められています。

坂本城があった頃は京都が政治の中心でしたが、秀吉は伏見→大坂に拠点を移します。その為街道整備が必要になりました。

大津から京都へは山中越を使っていましたが逢坂山を越えて伏見に出る方が便利になったのです。

追分は大津市街地とは峠をはさんだ立地で京都山科に近接しています。大津宿に属するのが不思議に感じていましたが、

おそらく街道分岐の追分の重要性があってのことだったのでしょう。

ところで大津ー三条間は日ノ岡、逢坂山を越えなければいけません。人馬はともかく物資輸送は大変でした。

そこで、車石という牛車を通す車道を整備しました。

            ○追分の閑栖寺に残る当時の街道(右が人馬道、左が車道)

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      車道を保存している場所はありますが、人馬道とセットで保存しているのは始めてみました。

      この幅の倍あったのが当時、この地域の東海道です。

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            ○横木にある車石の解説版

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追分から逢坂山、そして市街地のルートは国道と高速道路、鉄道が平行して走り当時の面影はありません。

■逢坂の関

逢坂山には逢坂の関の碑があります。

            ○逢坂山関址と解説版

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逢坂の関は古代からの関所で、本格的に稼動したのは平安京の防衛施設としてです。

逢坂山の峠は近代にかなり掘り下げたようで当時の関所の場所はわかっていません。

この石碑は峠の一番高所にありますが、むしろ大津市街地に下りたあたりだったようです。

峠を下ると国道1号線と市街地に向かう道が分かれます。左側の下り坂が東海道で市街地に入っていきます。

■大津町

大津宿は大津百町とも呼ばれていて、文字通り百の町が存在しました。江戸時代は幕府の直轄地で

代官所が置かれていました。

宿場大津は3つの大きな通りで区分けされていて現在も変化はありません。

湖岸の埋め立てや周辺地域の開拓で町自体は拡大していますが、旧東海道、北国街道などを中心に

江戸時代の面影が残る町です。

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江戸時代中期、寛保2年(1742年)写の「大津町古絵図」と見比べてみましょう。

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現在の地図で大津駅あたりは未開の土地でした。山側が開拓されているのがよくわかります。

京都側の境は追分でしたが、南(地図の左側)は馬場町、北(地図の右側)は尾花川町でしした。

●本陣跡、代官の墓所、近江別院

現在の京町1丁目交差点が当時は札の辻と呼ばれ、高札が掛かる行き止まりの三叉路でした。

今は浜大津まで道がつながっています。またこの周辺に本陣が置かれていました。

関が原の戦いの後、徳川家康は大津城で戦後処理をおこなっています。関が原で勝利した徳川家康は他の地域の戦闘指揮をしつつ、5日後に大津城に入りしばらく滞在します。

この間、石田三成が捕脱された城門前につながれ諸将の辱めをうける有名なシーンは大津城での出来事でした。
どの門だったのかと調べましたがわかりません。

大津城に家康が滞在したのは京極家が味方であるだけでなく、町衆に安心感があったからだと思っています。
大津は蓮如が本拠をおいた時期があり真宗強勢の町でした。この時代の法主教如は家康を支援しており町をあげての歓迎と安定を作り出していたのだと思います。

                                                                                                            きむらよしのぶ

『10年後の自分への手紙』が届きました

志賀小学校であるイベントがありました。10年後の自分への手紙の開封です。小学校のタイムカプセルですね。

ポスティングされました。私ではなく長男のものです。

年賀状に紛れていましたが、はるみちゃんと封筒の字を何気なく見ていたら、長男の字やないかと思い始め、

住所もないから小学校の関係者のポスティングのはずで、タイムカプセルじゃないかと推測しました。

確かめたいが勝手に開けるわけにもいかないので、外出中の長男にメールをすると「自分への手紙」だと返事がありました。

本人も忘れていたようです。

長男が帰宅するのを楽しみにしていました。入っていたのは手紙と名札でした。

面白いね。

研修でよくやる手法ですが、自分のまわりで起こるとまた違った印象を持ちます。

封筒だけ写真にっとておきました。

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                                                  きむらよしのぶ

新年の初ランは10km 50分44秒でした

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昨年はまだ手術後の複視が治らずにエントリーはしませんでした。今年は暖かくていい。晴れではなかったですが、過ごしやすい冬の日でした。

タイムはもう一つでしたが、久しぶりに時間に追われてよい気分でした。
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昨年の末に膝を痛めましたが段々慣れてきました。今年はしっかり走りたいものです。

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コースは大津のなぎさ公園を中心にした10kmで今年は大変な人でした。ランニングブームなんですね。
この大会はファミリー向けですが34回を数える老舗の大会です。
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47分代が今年の狙いです。

きむらよしのぶ







京都市山科区の史跡 坂上田村麻呂の墓

今年の初詣は大津市の近江神宮です。おめでとうございます。

Dcim0016近江神宮は昭和15年に紀元2600年を記念して創られ、祭神はこの大津に都をおいた第35代天智天皇です。
壬申の乱で弘文天皇が破れ皇統は天武天皇に代わりました。天武天皇の系統は称徳天皇まで続きます。
第49代光仁天皇は天智天皇の系統でその後現在まで皇統が続きます。光仁天皇の次の帝は桓武天皇です。
平安京への遷都で王城1000年の繁栄を築きます。またたくさんの子孫を世に残しこの中から“武士”が登場しました。古代から中世に移り変わる起点となる時代の天皇です。

外征面では未開の地であった東北を制圧し領土としました。政権の大幅な体質強化となりました。

蝦夷(東北)との戦いで武名を挙げ政権の中心に躍り出たのが坂上田村麻呂です。 ////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

◆坂上田村麻呂の墓 西野山古墓

坂上田村麻呂は渡来系の武人で光仁天皇の御世から仕え嵯峨天皇までの4代にわたって活躍をしました。
清水寺を創建したのも田村麻呂です。古代のヒーローの一人です。

2012年で私の印象に残ったのは坂上田村麻呂の墓が特定されたという発表でした。坂上田村麻呂の墓は山科区勧修寺に存在しますがこれは明治28年平安遷都千百年記念で整備されたもので学術的な裏付けはないようです。

大正時代に京都市山科区西野山でのちに国宝に指定される副葬品と木簡が発見されました。発見当時はこの地域で勢力のあった中臣氏一族が被葬者ともいわれていましたが、その後の研究で坂上田村麻呂の墓であるとの推定が主流となっていました。この墓を西野山古墓といいます。

さてその後の古墓ですが、史跡指定などを受けずにいたため宅地開発とともに所在が分からなくなっていました。

歴史考古学研究家の鳥居治夫さんが現地を丹念に歩き、地元の情報収集をし今回古墓の位置を特定し発表されました。鳥居さんが西野山古墓の被葬者が坂上田村麻呂の墓と発表なさったのは40年前。

改めて特定の為に動かれたのは2007年からですが長期にわたって研究の成果だったことでしょう。

◆3つの古墓推定地

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歴史地図などを見ると京都市山科区勧修寺東栗栖野町に「坂上田村麻呂の墓」があります。概述の通り明治に整備された墓です。この地区は中臣十三墳とよばれる古墳群がありそのうちの一つです。

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二つ目は滑り石街道の途中に石柱がありました。
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今回発表された場所に古墓を示すものはありません。なんらかで特定できたらいいのですが。

                                                  きむらよしのぶ

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