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2012年12月

京都市山科区の史跡 中臣遺跡

大織冠藤原鎌足の生前の姓は“中臣”です。山科区の中臣遺跡は地名をとっての命名ですが中臣氏の関係遺構は見つかっていません。但し、興福寺の前身で鎌足の病気平癒の為に創建された山階寺の設立伝承や藤原氏家伝などから鎌足の時代にこの地を有していたのは確実だと思います。

中臣遺跡は旧安祥寺川と山科川に挟まれた段丘地に展開する遺跡です。この遺跡は後期旧石器時代(約2万年前)から室町時代後半の長きにわたる遺跡です。

●中臣遺跡地図

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古代の京都は秦氏など渡来系の氏族が地盤としていました。中臣氏は神事・祭事を司った豪族でした。
これは私の推測ですが、渡来系部族からノウハウを受け取ったのではないかと思います。

遺跡の場所は特徴的です。昔、東国から平安京に入るには3つのルートがありました。のちの東海道にあたる「日ノ岡越」、五条通と平行する「渋谷越」、そして中臣遺跡の西側に伸びる「滑石越」です。

現在も滑石越に通じる新十条通りが遺跡の真ん中を走っています。交通の要衝で水利も豊かですから、国家的にも重要な地域だったと思います。遺跡は標柱のみ。残念です。

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■中臣遺跡
遺跡は旧石器以来の住居の痕跡と中臣群集墳といわれる古墳群が主体です。中臣群集墳は13の古墳が存在しましたが現在残るのは2基のみです。山科駅から歩きだし30分弱で遺跡に入ります。

○中臣群集墳跡と稲荷塚古墳
折上神社の中に稲荷塚古墳が残ります。
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ここから勧修寺小学校を目指します。
     
    

○「この付近中臣遺跡」
すぐ北側には坂上田村麻呂の墓がありますが明治期に整備されたもので、実態は異なるようです。
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すぐ南の道を西に向かって100mほどで中臣遺跡碑があります。

○中臣遺跡碑
碑文には縄文時代からとなっていますが、その後旧石器遺跡が発見されています。
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一旦戻り勧修寺小学校を回り込んで反対側にでると中臣遺跡解説板があります。

○中臣遺跡解説板
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ひっとしたら、中臣鎌足の住居があったのかもしれません。今回はここまです。
                                              (撮影:2012年12月27、29日)    きむらよしのぶ

京都市山科区の史跡 山科本願寺跡Ⅱ

推定された山科本願寺跡の外周をまわりました。既に中心的な遺跡は訪問しています。残りを紹介します。
     (前回の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-9a61.html)

山科本願寺は中世城郭のはしりのような縄張りを有していました。平地に土塁と堀をめぐらしただけですから防御力はたいしたことはないと思います。

前回は北部に残る土塁や蓮如の隠居地の南殿址を紹介しました。今回は残る土塁と遺跡を紹介します。

○山科本願寺の縄張り推定復元図

4箇所をまわります。まずは寺内町跡の解説板から。

 

●山科寺内町跡解説板
古い解説板です。本願寺跡のほぼ中心にあって城でいえば本丸と二の丸の間でしょうか。文章では山科団地の建設にともなう発掘調査で遺跡が発見された顛末が紹介されていました。

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●ここから西側に残る土塁に至ります。写真は南側に伸びる国道1号線からのものです。

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土塁の西側には蓮如が亡くなった寺院がありました。

●蓮如上人往生之地(西宗寺)

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●国道一号線沿いに石柱がありますが工事用の防御柵に隠されていました。ひどいものです。

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国道一号線を西に少し進み、山科西野交差点を南下する土塁の南西角の解説板があります。この解説板が一番新しいものかもしれません。

●山科本願寺土塁跡南西角

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土塁は高さ5~6m、基底部約15mとかなり大規模な部分もあったようです。

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住宅がかなり建っていますから今後の発掘は難しいかもしれません。貴重な遺跡ですから大事にしてほしいものです。今回はこれだけです。
                                                     

きむらよしのぶ

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京都市の史跡 太閤秀吉の古跡 聚楽第址 2 現地見学会に行きました

     聚楽第址から石垣が発見されました。これは非常に珍しいことです。聚楽第は秀吉によって徹底的に取り壊
     された為遺構はほどんど残っていません。また、その後住宅地になり遺跡の発掘も難しく稀なケースです。

     ということで大喜びで足を運びました。

     ちなみに前回の記事ですhttp://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/no1-9261.html

     ●聚楽第推定復元図と今回の遺跡
     市内関係遺跡図で聚楽第の位置を確認して、その規模を眺めてみましょう。かなり広大な規模であったことが
     わかります。

     聚楽第跡推定図では今回の発掘調査地が確認できます。聚楽第の縄張りは不明な点が多いのですが今回
     発掘されたのは大手門の西側に続く石垣だったことがわかります。
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     ○現地説明会資料
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     ○現地見学会
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     聚楽第屏風にみる今回の調査地
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     発見されたのは石垣の基底部になるようです。高さは失われている為不明です。奥が大手門に続きます。Cimg0220_2
     見学は50名程度をグループにして進行していました。かなりの動員でびっくりしました。休日やし中心部やし
     当然かもしれませんが。

                                                  きむらよしのぶ











神奈川県平塚市の遺跡 相模国府跡

奈良時代から江戸時代まで続いた旧分国で神奈川県の大半は相模国でした。現在の横浜市・川崎市は武蔵国に属していました。国府は県庁所在地のようなものですが長く実態がわかりませんでした。考古学的な発見は滋賀県大津市の近江国庁の発見からでした。その後全国の国府跡で発掘調査が進み、国府・国庁の実態があきらかにされていきました。相模国の国府は複数の候補地がありなかなか特定が進みませんでした。

昨年、神奈川県立歴史博物館に立ち寄ったら、国府は平塚市と掲示がありびっくりして係員に確認をしました。異論はあるものの、県の見解としては平塚市と断定したとのことでした。

国府跡を決定的にした発掘現場のあとに足を向けました。
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保存はされておらず解説板だけです。防御力のない平野であるのは気になりますが、国の真ん中で街道・水運にも恵まれた場所ですからさもありなんといったところでしょう。

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8世紀後半の住居址から「国厨」の墨書土器が出土しています。「国厨」の墨書土器は6点、国厨と判読される3点を合わせると9点になります。全国の国府遺跡や国府関連遺跡から出土する点数を上回るものでした。国厨とは国府の給食施設のことです。国衙・国庁はまだ発見されていませんが、この周辺に存在したことはほぼ確実です。

遺跡には旧東海道と思われる大型道路も発見されています。

■相模国府跡
所在地 神奈川県平塚市四之宮
アクセス 平塚駅よりバス 稲荷前停あるいは泉蔵院前停より徒歩5分
Photo

                                          きむらよしのぶ

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