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神奈川県の史跡 史跡相模川橋脚

Cimg1272                                                               (現地の解説版より)

写真は橋脚が地上に現れた時の様子です。10年ほど前にこの写真をみて衝撃を受けました。是非見たいと思いました。

9月15日念願の訪問です。旧東海道RUNの途中、場所は茅ヶ崎駅からRUNで15分程度。今はニトリが横にあるのでわかりやすい。
Photo_3
今日は昨年脳腫瘍の手術をした日で一周年記念RUNです。従って念願の橋脚に足を運びました。

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[史跡旧相模川橋脚]

橋脚遺跡は大変珍しい。橋脚跡が発掘されることはありますが、普通は川の中にあるはずなので木の橋脚が発見されることはまずありません。

 
(遺跡サイドの標柱)
Cimg1265
(国道一号線沿いの標柱)Cimg1287
(1)関東大震災で現れた橋脚

関東大震災とその後の余震で、田んぼの中に突然丸木の橋脚らしいものがあらわれました。関東大震災は東京だけでなく神奈川にも大きな被害を与えました。そんな中、数メートルの土中から地震の振動で橋脚が地上に登場します。地元、特にこの土地の所有者は驚いたでしょう。

関東大震災からの復興作業も大変な時期に橋脚の保存が始まります。近郷の青年会が相当な協力をされたとのことです。ありがたいことです。そして大震災から3年後の大正15年に史跡指定を受けます。

(2)橋脚は鎌倉時代のものか

稲毛重成が妻の供養の為に相模川に掛けた橋がこの橋脚と推定されています。重成の領地であったのか?
それとも妻の危篤の知らせに上洛中の重成は馬を飛ばすのですが、橋がなかったから臨終に間に合わなかったから?などいずれにしても想像するしかありません。私は相模川の橋であったのかはまだわからないと思っています。吾妻鏡からの推定ですからね。橋脚からみて橋の規模は大きい。いずれにしてもメイン街道の橋ではあったのでしょう。
Cimg1273
(3)当時の川の流れ

発掘の結果、川や橋の全体像がわかったわけではありませんが、現在遺跡の横を南北に流れる小出川とは流れの違う川であったことがわかってきました。小出川は南北に流れていますが、遺跡橋脚の川は東西に流れていたのです。

神奈川県の地形は境川と相模川が作りました。平塚・茅ヶ崎のあたりは縄文時代は海中にあり現在も海抜が低い。相模川は北部・西部の丘陵からの水を集めてきますが、よく暴れ、流れを変えたり、分流したりしたようです。

現地説明版にある橋脚と推定する川の流れを加工しています。
Cimg1276_2
明治15年当時の相模川と周辺の川の流れを現在の地図に反映させたものが次ぎの地図です。少しの起伏に流れを変えているようにも思えます。しかし、現状の面影がありませんね。
Photo_4
(4)遺跡の現状
Cimg1286    
地上に出ている橋脚は本物ではありません。発見された場所にそのまま、橋脚も残してその上にこの遺跡公園のように保存しています。次ぎの写真は本物の橋脚がそのままだった時期のものです。
Cimg1274
さすがに木がダメになってきて保存池を根本的に整備しました。現在の池はこの当時の池の上に出来ています。従って今は池の位置が高い。
Cimg1275
解説版です。
    Cimg1268
池の南から眺める
Cimg1277
解説模型がありました。地形がわかって面白い。
Cimg1281_2

■史跡 旧相模川橋脚
所在地  神奈川県茅ヶ崎市下町屋一丁目
アクセス JR茅ヶ崎駅より車で5分

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