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2012年9月

史跡 武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡 (4)参道口

Photo_3                                            (武蔵国分寺周辺地図)

●珍しい道路跡 「参道口」

武蔵国分寺跡国分尼寺跡の間に東山道武蔵路が走っていました。南に向かうと武蔵国府がありました。
参道口は古代の三叉路で、北に向かう道は武蔵国分寺に向かいま、西北に向かう道は東山道武蔵路か国分尼寺に、南東に向かう道は武蔵国府に向かっていたようです。国府と国分寺を繋ぐ道の遺跡は全国でも例がありません。また、北に向かう道の両脇から門柱状遺構が発見されました。これも珍しい。

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武蔵国分寺の中門址を通り南下します。突き当たりが東八道路です。信号がなく直進は出来ません。東八道路を左折してすぐの信号で対岸に渡りこの道の続きを進みます。
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東八を超えて、国分寺からの直線の道に戻ったら、すぐ遺跡公園が出てきます。『万作の木公園』の由来は何なのでしょうか。かわいらしいですね。

Cimg1798
道の色が変わっています。これが発掘された参道跡です。向かって右が国分寺へ。直進は東山道武蔵路か国分尼寺に。
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解説版
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解説版の解説部分
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解説版 発掘現場と参道口の相関関係地図
    Cimg2232
解説版 周辺地図と参道口の全体図
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武蔵国分寺方面への道 正面のお宅も気の毒ですね。道幅は以外に狭い。両脇の門柱状遺構跡です。
大きな門ではなかったのでしょう。
Cimg1813
Cimg2236
門柱状遺構の推定図
こうした門の情報を持たないのでよくわからない。
Cimg2236_2 
南側です。
Cimg2237   

■武蔵国分寺跡 参道口
所在地  府中市栄町3
アクセス 北府中より徒歩7分
                                                    きむらよしのぶ

史跡 武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡 (3)武蔵国分尼寺跡

国分尼寺跡は公園整備が終了しています。昭和39年(1964年)に大規模な住宅開発が行われて未調査のまま遺跡が破壊されました。遺跡は先祖の歴史ですからないがしろにする行為は自分をも否定することです。志の低いがこの狭い国土をさわってはいけません。
こういう事実があったことを頭に入れて訪問すると違った景色が見えてきて楽しめます。

興味があるが調べていないのが尼の存在です。国内の最初の尼として善信尼が有名です。それから約200年、国分尼寺成立時には全国で相当数の尼が存在したはず。支援が必要なはずなので出身は朝廷や有力豪族の縁者のはず。尼は特別な存在だったと思うのですが、どんなモチベーションだったのでしょうね。研究者より仏教関係者に伺ったほうが面白いかもしれません。ともかく武蔵国分尼寺にいってきました。

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・武蔵国分寺・国分尼寺跡周辺地図

Photo
近い駅はJR北府中駅ですが、JR西国分寺駅から東山道武蔵路国分僧寺跡を経由して向かいました。
金堂跡を右手に見て、少し進むと第四中学の一角に文化財資料展示室を見つけました。学芸員の方にお話を伺ってから府中街道を渡ります。武蔵野線の線路をくぐるとすぐ歴史公園が広がります。
・歴史公園内地図
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①石碑  石碑にも歴史があって面白い
Cimg0774
②東辺の区画施設跡
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③解説版
推定部分は多いものの、十分に規模を感じさせてくれます。
Cimg0776
④中門址
門址の一部範囲が残っています。ほとんどが道と宅地になっています。
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⑤金堂跡
Cimg0781
のぼり旗を掛け吊るす竿の柱穴「幢(どう)」の址です。大変珍しい。私は始めてみました。
Cimg0785 
金堂の基壇の断面  版築の意味がわかります。
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⑥金堂基壇から、講堂跡、尼坊跡を眺める
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金堂の北側に講堂があつたと推定されています
 Cimg0792
尼坊の付属施設だったようです
Cimg0799
のぼり旗が斜めになって飾られていたのでしょう。華やかだったでしょう。
Cimg0797
⑦尼坊跡と北辺
この壁が推定された北限です。模型は推定です。
Cimg0804
尼坊跡 尼が生活をしていた施設。10名程度の尼がいたようです。礎石は発見されたものと推定が混じっています。
Cimg0805
ほぼ真ん中に大きな木があります。このバランスが公園を引き締めています。

この北側に『伝鎌倉街道』があります。
                                                  (2012年8月7日:撮影)

 ■国史跡 武蔵国分寺跡
 所在地  東京都国分寺市
 アクセス JR中央線西国分寺駅または北府中駅
                                                    きむらよしのぶ

史跡 武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡 (5)東山道武蔵路跡 恋ヶ窪地区

東山道武蔵路跡の追加取材です。西国分寺駅の北側も調査され遺跡が発見されています。

地名から恋ヶ窪地域といいます。

■MAP 

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■東山道武蔵路跡 恋ヶ窪地区
東山道武蔵路跡は既に紹介していますが(http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/1-d256.html)北側に続く、恋ヶ窪地区を改めて眺めてみました。

湿地につくられた道路の特徴的な構造と後年の畠山重忠の逸話とともに著名なエリアです。

○西国分寺駅北口を出て府中街道をわたります

Cimg2135_2
○突き当りを左に折れます
Cimg2140
○姿見の池に到着 史跡と一体になっています。
Cimg2147
この池の先に案内板がありました
Cimg2154
○案内板
Cimg2166

○恋ヶ窪の東山道武蔵路
湧水の多い湿地である為、何層も組み合わせた版築道路といわれる高度な技術で作り上げられていました。古代から日本の土木技術は高かったのですね。
4

■東山道武蔵路恋ヶ窪地区

東京都国分寺市西恋ヶ窪1丁目

JR西国分寺駅北口より5分

                                           きむらよしのぶ




史跡 武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡 (2)武蔵国分寺跡

●武蔵国分寺

国分寺は聖武天皇が各国に作らせた官製寺院です。武蔵国分寺は全国でも有数の規模を持っていました。国分寺市、府中市は令制時代の武蔵国の中心地です。発掘の結果、国衙は府中市で発見されました。国分寺は早い時期に衰退し、江戸時代には「国分寺跡」として知られていました。律令制そのものが早期に形骸化していますから、財政面でも国分寺の維持は難しくなりました。新田義貞の鎌倉攻めの際に焼かれその後義貞により寄進を受け再建したものの、その後衰退します。

●仏教の普及と国分寺

私の子供の頃は「仏教伝来」と習いましたが今日では公伝と私伝に区別しているようです。歴史も変わります。
仏教が公式に伝わったのは500年代半ばが有力ですが、それ以前にも私的な寺院が存在していました。私伝を明確にするのは難しいでしょうが300年代の後半には伝わっていたと思います。

国分寺が成立した時期の民衆の信仰心、帰依ぶりは恐らく小さなものだったのでしょう。この後最澄、空海という天才が登場し、武士が政治進出を果たす頃になって宗教は民衆のものになっていきました。国分寺が衰退するのは結局支援組織が育たなかったからです。

ちなみに聖武天皇の時代は経済的に豊かだったのでしょうか?かなりの支出だったと思うのですが。調べようがありません。
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・武蔵国分寺跡周辺遺跡地図

 
                                      Ycimg8948_2     

武蔵国分寺跡は史跡公園化の方向で整備をされています。コスト面や保存のあり方など課題も多く進んでいないようでした。
    
①講堂跡
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②金堂跡
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奥の説明版の後ろは講堂跡
Cimg2198_2 
礎石
Cimg8945_2
③中門址
Cimg0766_2
 
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④七重塔跡
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⑤僧寺北東地域
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A 仁王門、薬師堂
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B 国分寺
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資料館内にある七重塔の復元模型
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資料館にある復元模型
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武蔵国は埼玉県、東京都、横浜市・川崎市の大部分が範囲です
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C 真姿の池湧水群
Cimg0756_2

武蔵国分寺跡は国分寺崖線の下にあります。なぜもう一段高い位置に築かなかったのかなど私の疑問は大きいのですが、今日はここまで。資料館を訪れた上の散策がよいでしょう。公園化した後では味気ないかもしれません。

今週は若い子達の営業の手伝いで動いています。涼しくなりました。

        (2012年8月7日・9月9日:撮影)

■国史跡 武蔵国分寺跡
所在地  東京都国分寺市
アクセス JR中央線西国分寺駅または北府中駅
                                                    きむらよしのぶ

このクールNO.1ドラマ 『薄桜記』 最終回

    BSの連続ドラマで、来クールからは総合テレビに登場します。こんな展開がでるようになるものなんですね。

    忠臣蔵のストーリーが背景にある時代劇で、NHKらしいストイックさと武家社会の倫理観を上手に表現した作品
    です。主人公丹下典膳演じる山本耕史さん、妻役の柴本幸さんを初めとして悪人がいないが泣かせるシーンが
    多い。

    この作品は前半から山場がある。旗本で剣客である丹下典膳が妻を守るために筋を通して左腕を失います

    そのことで改易され浪人となった典膳は市井の心ある人々とあらたなる人生をはじめますが、輪廻は断ち切れ
    ず人生を全うすることが出来ません。しかし最後の言葉は「死に場所を見つけた」でした。泣ける最後てした。
    

    絶品でした。
                                                      きむらよしのぶ

                          

感謝と詫びの気持ち バスの乗り間違い

    “難儀やなぁ”と思うことがありました。小さなことですが一事が万事です。自宅近くの停留所からバスにより、
    二つ目の停留所で小さな事件がありました。近所の中学のソフトボール部の子達が乗り込んできて15名ほどが
    乗車したところで誰かが乗り間違いに気がつきました。先生かも生徒かもしれませんが乗車している私にはわ
    かりません。乗った子達は16名。みんなパスモを使っているので返金には時間が掛かりました。

    子達以外に乗車しているのは5名程度だったと思います。

    乗務員は勝手に返金することは出来ないようで本部に確認して進めていきます。そんな途中先生が手数を掛け
    ていることに恐縮したのか「私が払います」とおっしゃいました。乗務員さんは取り上げず、粛々と処理を進めて
    いきました。


    手続きが終わりました。実に10分が経過しています。


    窓の外では先生と子供たちがわいわい言っています。


    子供たちが乗務員や乗車した客に侘びのアクションはしめしませんでした。

    先生からの侘びのアクションもありませんでした。



    こんな子供時代を送っていて、面白い大人にはならんわなぁ

    
    難儀やなぁ~
 
                                                  きむらよしのぶ

横浜市歴史資料館 企画展『生麦事件と横浜の村々』

    横浜市歴史博物館の企画展はよいものが多い。今回は表題の『生麦事件と横浜の村々』で、東海道RUN
    中の私にとってはもう少し早くやってくれたら~という企画ですが足を運びました。いつでも行けると思っている
    と終了1日前になっていました。

    横浜地下鉄センター北駅を降りて5分程度、線路沿いにあるのでわかりやすい。博物館の横に「歴博通り」が
    走っていて、路線橋を渡ると弥生時代の住居群で有名な『大塚・歳勝土遺跡』があります。博物館でもガイドを
    して頂けます。
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    ○企画展『生麦事件と横浜の村々』

Cimg1974
    生麦事件は1962年9月14日東海道の生麦村で起こった外国人殺傷事件です。幕末の入り口はペリー来航です
    が、倒幕に向かったのはこの事件からだと思います。この事件を通して薩摩藩と英国が繋がります。薩摩藩は
    武力面で力を得て、英国は先々の見通しを新たにしました。

    企画展では当時の生麦村の様子を明らかにしています。約250軒の家屋が並び神奈川宿と川崎宿のほぼ中間に
    ある為に、「立場」「間宿」のような位置づけであったようです。外国人は開港場(現:関内)から10里(40km)が
    遊歩区域。多摩川から酒匂川までの間です。

    事件の詳細はよく知られています。展示では当時の近辺の覚書が沢山ありました。内容を見ていると江戸幕府
    の統治体制が垣間見れて面白い。八王子千人同心が本牧警備に借り出されていたのは初めて知りました。
    
    意外に来場者が多く、ゆっくりメモをとれませんでした。盛況でなによりですがこれでまた資料を購入しないとい
    けなくなりました。

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    ○常設展
    規模は大きくありませんがよく考えられた展示物が多い。横浜には開港資料館、県立博物館がありますから、
    通常の研究の色分けもあるものの来場者の期待感に応える展示をするのはなかなか難しいものです。また、
    都筑区は横浜市内でもっとも考古学遺跡が多く、ここは捨てがたい。

    写真撮影はOKです。私の興味あるところだけカメラに収めましたので以下に。
    
    (1)館内 アプローチ
2
    (2)ナウマンゾウがお出迎え
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    (3)大塚・歳勝土遺跡の復元模型 
    環濠のど真ん中に道が通り対岸に博物館があります。
Photo_3
    (4)都筑郡衙跡 
    郡衙の真ん中にも東名高速が走っています。
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    (5)中世 武士の時代です
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    ・金沢八景にある上行寺東やぐら遺跡に関する遺物
    開発と遺跡破壊で話題になりました。商売の為に卑しいことをしてはいけませんわね。
Cimg1926
    こうした人形がこの博物館の特徴です。
Cimg1921
    (6)吉田新田 
    横浜の関内・中華街から西側一体は海でした。横浜の大半は新田開発で出来た土地です。
Cimg1941 
    現在の上空地図から吉田新田を眺める
    赤い枠の中が吉田新田と太田屋新田・横浜新田
Cimg1944
    潮除堤の模型
    現在JR根岸線が走る線路の辺りは埋立の為に堤を作った跡のようです。その工事現場を模型で再現されて
    います。関内駅の辺りの再現かもしれませんね。
Cimg1947
    (7)町の発展 神奈川宿台町の「桜屋」の再現模型
Cimg1934
Cimg1935
Cimg1939
    当時の街道筋はかなりの交通量だったようですね。東海道も一度解析してみないといけませんね。
Cimg1958
    (8)明治の発展
    控えてくるのを忘れましたがたぶん初代の横浜駅
Cimg1961
    人形じゃないみたいです。
Cimg1965
    臨場感がありすぎるかも?
Cimg1969
Cimg1963 

     こんなことで今日は終了です。映像などのデジタル資料が充実していて、これに目を通しはじめると一時間
     はすぐたちます。お近くの方は一度どうぞ。

     ■横浜市歴史博物館
     所在地  横浜市都筑区中川中央1-18-1
     アクセス 横浜市営地下鉄センター北駅より徒歩5分
                                                    きむらよしのぶ

    

横浜市都筑区 3つの富士巡り

    出かけようと思うと雨が降り出す変な一日でした。結局自宅近辺でうろうろしていました。横浜市歴史博物館と
    都筑の3富士の中で未訪問の池辺富士までのRUNにしました。ついでに山田富士、川和富士をくるっと回る
    RUNになりました。

    ・都筑3富士の地図
3u
    夏に富士山が見えることはほとんどありませんが、冬の空気のよい日の富士の美しさは格別です。富士講を学
    術的に見たことはありませんが、論よりは富士山を見たときの感激が日本人の心に定着していき各地の富士
    講に繋がったのだろうと思います。関東に来て13年、静岡に入って近くで富士山を見ると言葉がでません。
    
    ○池辺富士
    三つの富士では一番小ぶりな富士です。また周囲は広々とした農園である為、富士が周囲を見張るように
    起立しています。周囲は関係者しか車で入れませんので私のようにランニングがよいかもしれません。
    横浜地下鉄都筑ふれあいの丘駅から走りで5分程度。駅から清掃工場に向かって南側に回りこむとすぐ目
    に入ってきます。
    ・池辺富士 西側の道からの撮影 登山口は東側なので回りこみます。
2cimg1980     
    ・鳥居のある登山口 鳥居が崩れ落ちそうでした。個人の所有なのでしょうか?
2cimg1982
    この足で川和富士に向かいました。走りでは10分ほどです。
Cimg1988
    遠景 一番広々とした公園です。
Cimg1990
    天気がいまひとつなので山田富士には向かわず。以前の原稿をあげておきます。
    (以前の原稿 都築区 山田富士
     http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1514.html)

                                                                                                             きむらよしのぶ

源氏 関東では初めての氏神 郷社鶴嶺八幡宮

    氏神という存在は大変日本人らしい。桓武天皇には沢山の皇子皇女が誕生しました。宮廷で養うことが難しく
    なり大量の臣籍降下を行いました。臣籍降下は引き続きおこなわれ、宮廷貴族となるもの、武士となるものな
    ど多様に展開をしていきます。天皇家との血族であるという事実が団結力を強めていきます。源氏・平氏がそ
    の代表的な血族です。この血族は関係する他の血族とともに生活を共にするものも増えてきて、村や郷のよう
    な地域社会を構成するようになります。こうしたコミュニティ集団を氏族といいます。氏族が祭る祖神や守護神の
    ことを「氏神」といいます。氏神を管理・守護し、祭祀を執り行ったのが氏の長者や棟梁と呼ばれるようになり
    ます。

    清和源氏の氏神が河内の壺井八幡宮であることは知られていますが、源家が全国に展開すると同時に八幡宮
    は勧請されました。清和源氏二代頼義が前九年の役で関東に入った時に勧請したのが鶴嶺八幡宮でした。
    これが関東地区での始めて氏神の造営だったようです。頼朝が鶴岡八幡宮を造営し遷したのですが、その後
    の尊敬を集めました。
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    ○鶴嶺八幡宮を訪ねます

    茅ヶ崎駅付近から国道一号線を15分程走ると鳥井戸橋につきます。南湖の左富士之碑が橋のたもとにあり、
    反対側の道路の大鳥居が目に入ります。

Cimg1235
    鳥居の先に一本道が続いています。これが鶴嶺八幡宮の参道です。Cimg1255
    4分程度のジョギングで突き当たりの神社に到着しました
D_cimg1240
    「郷社」という地域との連帯をと見て取れる格付けはこの社らしい。
Cimg1242
    ここから社殿・本殿に向かう参道があでやかでした。緑がふかい。
Cimg1243
Cimg1244
    例大祭でした
  Cimg1247
    社殿
Cimg1252
D_cimg1251
Cimg1253
    これからなのですが、時間がないので走り始めました。
D_cimg1256
    2012年9月15日に東海道RUNの途中で立ち寄りました。アップするのを失念していました。

    今日は、新橋・田村右京太夫邸跡に立ち寄りました。忠臣蔵がらみでまた紹介します。
    
    ■鶴嶺八幡宮
    所在地 神奈川県茅ヶ崎市浜之郷
    アクセス JR茅ヶ崎駅よりバス
2                                                 きむらよしのぷ

東京都旧跡 於岩稲荷田宮神社 「四谷怪談」のお岩を祭る2つの社

    四谷三丁目にやってきました。悠、さくさくと同行です。到着が早かったので町内をくるっと一周しました。訪問先の裏に
    神社とお寺がありました。怪談といえばこの作品、「四谷怪談」の主人公お岩を共に祭っていました。四谷に来るたびに
    “四谷怪談”の文字が浮かぶ。わざわざ探すこともないと思っていましたが図らずも・・・でした。不思議なものですね。

    四谷怪談は江戸時代に鶴屋南北によって書かれた歌舞伎の名作です。『東海道四谷怪談』が正式です。このジャンル
    では雨月物語が有名ですが、四谷怪談は歌舞伎の舞台演出も伴って人気が出ました。解説版を読んでびっくり!!この
    物語はある事実を背景にしているのだそうです。その原本を見たいものです。

    ○二つの「お岩稲荷」

    於岩稲荷田宮神社は四谷怪談の主人公田宮伊左衛門の屋敷内に神社を置いて妻のお岩を祭った旧地とのことです。

    明治以後火災や空襲で他の地に移つりました。その間新たにこの地でお岩を祭っていたのが陽運寺です。

    第二次世界大戦後、田宮神社はこの地に戻ります。二つのお岩稲荷が存在するのはこうした経緯でした。

    能書きはこれぐらいで、両方ともを眺めてきました。

    ・於岩稲荷田宮神社

Cimg1854_2
    ・解説板 傷んでいて読めない部分がありました。

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    通りの向えには陽運寺があります。

    ・陽雲寺
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    アプローチの柳が大変な量で、怪談を意識したものになっています
Cimg1849_2 
    境内です。解説がなく意味不明ですが写真だけ
Cimg1841_2
    由来書がありました
Cimg1845_2

    今日はここまで

    ■於岩稲荷田宮神社
    所在地  東京都新宿区左門町17
    アクセス 地下鉄四谷三丁目より徒歩7分
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                                                    きむらよのぶ

国史跡 武蔵国府跡

武蔵国は現在の埼玉・東京・横浜の大部分を含む。成立は7世紀と推定され、明治以降段階的に現在の行政区分に至りました。武蔵国府は現在の東京都府中市におかれ長くこの地域の中心でした。国府とは現在の県庁所在地で、行政が集まった地域を国衙、庁舎そのものを国庁といいます。武蔵国府跡は国衙と関連遺跡で史跡指定を受けています。つまり町そのものが史跡になっているのです。これからの発掘で範囲は拡大していくでしょう。

国府の範囲は現在の府中市のほぼ中央で、京王分倍河原の北部から東府中駅あたりです。街中にもかかわらずよく発掘・保存が進んだものです。

古代に設置された国衙は、私領である荘園の登場や武家政権の守護の役割強化で機能を取り込まれていきました。
おそらく室町時代の前半には消滅したようです。

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・国府周辺遺跡地図(旧甲州街道をの南側でたくさんの遺跡が出ています)

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京王府中駅を出て、馬場大門のケヤキを通り大國魂神社に入ります。神社とその東側の地下から国衙遺跡が発掘されました。参道を入りふふるさと歴史資料館の前に石柱が出来ていました。
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全国の国府・国衙の実態はなかなかわかりませんでした。初めて発掘成果が出たのは近江国庁でした。リハビリ中によく走ったものです。パンフレットの発掘状況マップは充実しています。しかしこの街中でよくここまでと思います。
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ちなみに大國魂神社の創建は景行天皇の御世です。国衙が出来た頃にはどんな位置づけにあったのでしょうか?調べてもわかりませんでした。

大國魂神社の東隣に「国史跡 武蔵国衙跡」があります。遺跡の保存公園です。

○国史跡 武蔵国府跡 国衙跡地区
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建物は2棟発見されています。
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建物は瓦葺きと朱色の柱が発見されました。政治の中心に建物であるのは間違いありません。
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展示スペースは見える範囲で小さいですがデザインはなかなかよいですね。明るくてわかりやすい。
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資料も充実しています。もっとも「ふるさと府中歴史館」に先に立ち寄ることを進めます。
Cimg8881もう一つの遺跡保存地区で「御殿地」があります。大國魂神社を西側に出て府中本町駅に向かいます。

○国史跡 武蔵国府跡 御殿地地区

府中本町駅前の西側に広がる小学校の校庭ほどの広場が御殿地地区です。古墳時代には集落が存在、7世紀末から8世紀初頭に都から赴任した国司の居宅である国司館か築かれました。施設は6棟は規則的に配置され、うち3棟は大型施設です。国司館は国衙に先行して造営されたようで、国府成時の様子を理解する上で貴重な遺跡です。

Cimg1824   
  

土の上にシートが被せてありますが、どんな保存を考えているのかがわかりません。

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同時にこの地域は徳川家康の別荘である府中御殿があったとの伝承がありました。近年の発掘調査で三葉葵の鬼瓦が出て、伝承どおりの御殿であったことが確認できました。

ざっと一時間程度で見学可能です。これから保存と公園化が始まるますが、街中だけに大変です。


今日は昼からの出勤で、今帰宅。アップロードを忘れていました。

(2012年4月26日、8月7日、9月18日 撮影:訪問)

■国史跡 武蔵国府跡

所在地 ①国衙跡 宮町2丁目5番2(史跡整備地)
       ②御殿地跡 府中市本町1-14

アクセス ①京王府中駅・JR府中本町駅ともに徒歩5分
       ②JR府中本町駅前
                                                    きむらよしのぶ

西国分寺駅ナカ 「NONOWA西国分寺」

    今日西国分寺駅で乗り換えたら、駅ナカの商業スペースが出来ていました。
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    立ち寄ったのは昼すぎでした。
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    お昼時だったからかもしれませんが、以外に人が入っていました。
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    私はめったに西国分寺では降りないので判断がつかないのですが、これだけの店がやっていけるのか?
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    勝算はあるのでしょうけど、やや驚きです。西国分寺駅にこんなニーズ
    があるとはびっくりです。
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    しげしげと眺めてしまいました。

    東京はマーケットが大きいですね。地方じゃ考えられない。

                                                  きむらよしのぶ

東京都赤坂の史跡 二つの勝海舟邸跡

私の父は勝海舟が大好きでした。私が小学校の頃によく勝の事跡を聞きました。私もいつの間にか本を読むようになりました。子母澤寛の「勝海舟」を読んだのが最初だったように思います。近年の勝のイメージは司馬遼太郎の「坂本竜馬」で描かれている勝なんだと思います。衰退する政権を支え孤立するも忠誠をつくします。
敵味方を超えて勝の意見を聞くものが多く、時代の巨人でありました。江戸開城の引き際は日本史上他に例を見ない政権交代です。勝は江戸っ子らしく語りの多い人でしたが、この時期の思いは言葉にしていません。
勝のことを語りだすときりがありませんね。

昨年の9月に手術の為に関西に戻り、例大祭の時期は病室にいました。例大祭は秋祭りとして実行されているものが多く一年の御礼を神に感謝する集いです。私にとって今年の例大祭は私自身の復帰への感謝です。

どちらの神社にしようかと迷いに迷いましたが、ふっと勝海舟のことが頭に浮かびました。繋がりは全くありませんが、何か赤坂でないとならんように思いました。ということで例大祭は赤坂氷川神社にしました。赤坂は勝が好んだ場所です。

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勝が生まれたのは本所でした。忠臣蔵の本所松坂町吉良邸の近くです。この場所は父小吉の兄弟で剣聖といわれた男谷精一郎の屋敷でした。父小吉はアウトローとして有名で、小気味よい人生を送るものの貧しい生活でありました。勝も貧しい生活を送りますが剣を磨き、蘭学の勉強に力を入れ世に出る為に努力を続けます。
    (以前の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-3550.html)
                                                   本所両国公園
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勝が世に出るきっかけになったのは米国ペリー艦隊の来航です。幕府は危機感から下々にも広く意見を聞きます。勝の意見書がこの時、目に留まり世に出るきっかけになりました。その後長崎海軍伝習所で5年をおくり、江戸に戻って引っ越してきたのが赤坂です。赤坂では3箇所を転々とします。

初めての居宅は赤坂田町(特定できませんでした)

二つ目が36歳、1859年。新進の技術者として階段を上り始めたころです。この年に神奈川台場の設計をしています。

・勝海舟邸跡

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この屋敷には1868年、明治元年までの10年間いました。彼が最も時代に影響を与えた時期です。坂本竜馬が千葉重太郎と勝を斬りにきて弟子入りするのはこの屋敷です。なんども来ていますが、この標柱の味気なさが江戸っ子勝の毀誉褒貶にこだわらない人生のようで好きなんです。

徳川家の処遇が決まり静岡に住まいを移します。5年後に江戸に戻り再び赤坂に居を構えます。そしてそこが終生の住まいとなりました。

・勝安房邸跡
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静岡に走るときよってみようかなぁ?切がなくなりますが。

久しぶりに勝の事跡に触れました。

■勝海舟の赤坂の居宅跡

①幕末の邸宅「勝海舟邸跡」  東京都港区赤坂6-10-39

②明治の邸宅「勝安房邸跡」  東京都港区赤坂6-6-14

Photo                                                     きむらよしのぶ

赤坂氷川神社例大祭2012

    この三連休は脳腫瘍手術から一周年記念イベントを一人イベントで楽しんでいます。今日16日は例大祭です。
 
    昨年は例大祭に行けませんでした。今年は迷ったのですが数少ない尊敬する人、勝安房の晩年の本拠である
    赤坂にしました。TBSも協力して盛大な祭りになっていました。

    ●赤坂氷川神社Cimg1341_2
    神輿が出て行ったあとで穏やかな境内ですCimg1342_2
    この境内は浅野土佐守屋敷跡です。忠臣蔵の南部坂雪の別れの屋敷跡です。Cimg1361_2

    ●日本武尊
    山車は三台、今年はこの日本武尊が100年ぶりに登場。三台の巡行も3年ぶりだそうです
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    山車 猩々
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    山車 翁二人立Cimg1469_2
    TBSのサカス前での式典Cimg1516_2
    司会はTBSの安東弘樹さん
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     巡行が始まりますCimg1625_2
    山車の飾り 
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    今回、こうしたところも修復したのでしょう?
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    東京の祭りは半被の背中の絵柄がいい。いなせな感じがします。
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    氷川神社に戻るのは17時。走ってきたうえに着替えほ持たなかったので体が冷えてきました。夕方までは
    無理そうなのでこれで終了です。
                                                    きむらよしのぶ

神奈川県の史跡 史跡相模川橋脚

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写真は橋脚が地上に現れた時の様子です。10年ほど前にこの写真をみて衝撃を受けました。是非見たいと思いました。

9月15日念願の訪問です。旧東海道RUNの途中、場所は茅ヶ崎駅からRUNで15分程度。今はニトリが横にあるのでわかりやすい。
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今日は昨年脳腫瘍の手術をした日で一周年記念RUNです。従って念願の橋脚に足を運びました。

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[史跡旧相模川橋脚]

橋脚遺跡は大変珍しい。橋脚跡が発掘されることはありますが、普通は川の中にあるはずなので木の橋脚が発見されることはまずありません。

 
(遺跡サイドの標柱)
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(国道一号線沿いの標柱)Cimg1287
(1)関東大震災で現れた橋脚

関東大震災とその後の余震で、田んぼの中に突然丸木の橋脚らしいものがあらわれました。関東大震災は東京だけでなく神奈川にも大きな被害を与えました。そんな中、数メートルの土中から地震の振動で橋脚が地上に登場します。地元、特にこの土地の所有者は驚いたでしょう。

関東大震災からの復興作業も大変な時期に橋脚の保存が始まります。近郷の青年会が相当な協力をされたとのことです。ありがたいことです。そして大震災から3年後の大正15年に史跡指定を受けます。

(2)橋脚は鎌倉時代のものか

稲毛重成が妻の供養の為に相模川に掛けた橋がこの橋脚と推定されています。重成の領地であったのか?
それとも妻の危篤の知らせに上洛中の重成は馬を飛ばすのですが、橋がなかったから臨終に間に合わなかったから?などいずれにしても想像するしかありません。私は相模川の橋であったのかはまだわからないと思っています。吾妻鏡からの推定ですからね。橋脚からみて橋の規模は大きい。いずれにしてもメイン街道の橋ではあったのでしょう。
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(3)当時の川の流れ

発掘の結果、川や橋の全体像がわかったわけではありませんが、現在遺跡の横を南北に流れる小出川とは流れの違う川であったことがわかってきました。小出川は南北に流れていますが、遺跡橋脚の川は東西に流れていたのです。

神奈川県の地形は境川と相模川が作りました。平塚・茅ヶ崎のあたりは縄文時代は海中にあり現在も海抜が低い。相模川は北部・西部の丘陵からの水を集めてきますが、よく暴れ、流れを変えたり、分流したりしたようです。

現地説明版にある橋脚と推定する川の流れを加工しています。
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明治15年当時の相模川と周辺の川の流れを現在の地図に反映させたものが次ぎの地図です。少しの起伏に流れを変えているようにも思えます。しかし、現状の面影がありませんね。
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(4)遺跡の現状
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地上に出ている橋脚は本物ではありません。発見された場所にそのまま、橋脚も残してその上にこの遺跡公園のように保存しています。次ぎの写真は本物の橋脚がそのままだった時期のものです。
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さすがに木がダメになってきて保存池を根本的に整備しました。現在の池はこの当時の池の上に出来ています。従って今は池の位置が高い。
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解説版です。
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池の南から眺める
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解説模型がありました。地形がわかって面白い。
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■史跡 旧相模川橋脚
所在地  神奈川県茅ヶ崎市下町屋一丁目
アクセス JR茅ヶ崎駅より車で5分

旧東海道五十三次を走る (7)藤沢宿から平塚宿 3.5里 13.7km

(7)戸塚宿を出発、藤沢宿を経由し、平塚駅で終了   2012年9月15日 

戸塚から藤沢宿をくるっとまわっていよいよ平塚にスタートします。正月の箱根駅伝は藤沢宿の遊行寺から藤沢橋を渡り、辻堂海岸に向かいます。旧東海道はこのまま内陸を走ります。どうせなら海岸線を楽しみたいのですがまた別の機会に。藤沢宿から平塚宿は13.7kmとやや距離があります。ほとんどを現在の国道一号線を走ります。正直単調なコースですが途中楽しみにしていた史跡があります。

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走り始めてメルシャンの建物の前におしゃれ地蔵が登場します。    
   

・おしゃれ地蔵
白粉が塗られた地蔵さんです。どなたがお化粧しているのでしょうか

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宿場の間には休憩所として「立場」がありました。藤沢ー平塚には4つの立場がありその一つが四谷立場です。

・四谷不動 四谷辻

この辻は大山道との交差点で道標がおかれています。実は対岸なので写真だけです。

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この間も開発のが進み、古い建物は少ないですが街道走りの楽しみの一つなので全工程でとったものをあげておきます

・街道の古い屋敷

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松並木が美しいですね。自治体の努力は大変だと思いますが整備に努めてもらいたいですね。
この辺りはフラットないしやや下りなので走りやすく気持ちがよい。信号が多いのは玉に瑕ですが。
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・二ッ谷稲荷
こちらも大山詣での立場だったようで、茶店が二軒並んでいたことか由来とのことです。こういう由来は事実のことが多い。民間伝承は偉大です。
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茅ヶ崎市に入りました。松並木がきれいでしょう。
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松並木が続く中、次の立場につきました。立場がある場所は平地で風の通る場所が多い。

・牡丹餅立場
四谷に続いて二つ目の立場が牡丹餅です。
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牡丹餅から少し進むと重厚な松並木が登場します。北側は茅ヶ崎高校です。   

・東海道の松並木 路線橋の上から平塚方面を
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走ってきた藤沢方面を  この絵柄いいですね
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茅ヶ崎駅までもう少しです。ジャスコが見えます。以前車で通った時はなかったように思いますが、相当昔のことだったのかな?ジャスコを過ぎると南側の角に一里塚跡がありました。道の両側に史跡や名所があるので信号を渡るのが大変です。私、信号は守るので。

・茅ヶ崎一里塚跡 14番目の一里塚です。一里とはほぼ4km。当時の旅人は目安にしながら旅をしていましたが、私も楽しみになってきました。

茅ヶ崎駅前の繁華が見えてきます。たまに呑みにくる場所です。いつもぐでんぐてんで帰ります。
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茅ヶ崎駅周辺を離れてすぐ、急速に雲が広がり激しい雨が降り出しました。雷が怖いので少し休憩です。
30分ほどで晴れ間が広がりました。最近多いですね急激な天気の変化が。
    

南湖入口 三つ目の立場があったあたり? 
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車にもまれるような感覚で一号線沿いを走ります。トラックも多くあまりよい気分ではありません。鳥井戸橋のたもとに左富士之碑がありました。富士は見えませんでしたが、確かに富士は右側に見えますが、ここともう一箇所では道の角度が変わるので左に見えるそうです。東名高速でもこんなことありますよね。


南湖の左富士之碑

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この橋の北に伸びる参道は鶴嶺八幡宮です。例大祭でした。

今回のお楽しみは旧相模川橋脚という遺跡です。今年の大河ドラマは平清盛です。この橋の開通式に招かれた源頼朝は落馬事故を起こし、それが元になって没したとの伝承があります。その橋の橋脚が関東大震災によって地上に現れました。

・史跡旧相模川橋脚
別にアップしますが感激です。 背景の池が橋脚の保存の池です。

  

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橋脚を過ぎると相模川まではあとちょっとです。

・相模川馬入橋上の写真
左上は北向きに撮影 右上は海岸を向いて撮影 
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渡りきったところから振り向いて一枚です。Cimg1296
相模川の手前で、平塚市に入りました。橋を渡って一号線は右にカーブしていきますが、旧東海道は直進。すぐ一里塚が出てきました。

   
・馬入一里塚跡 15番目です

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平塚駅を左に見て進みます。当時の平塚はもっと西よりだったのでしょうね

・平塚宿江戸見附跡
到着です。
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次回は小田原に行きます。

         ■日本橋 → 平塚宿 16里(62.8km)

東海道 六番目の宿場 藤沢宿 遊行寺門前の宿場

9月15日藤沢宿に入りました。戸塚宿を出て、原宿の平坦な道をしばらく走ると遊行寺坂の下りに入る。この先に藤沢宿の江戸方見附跡が登場します。見附跡の碑があるのは遊行寺の入口近くです。現在の藤沢市は、北側は相模野台地で南側は海岸平野が広がっています。印象では江ノ島と海岸線ですが、実態は相模野台地がおりなす低丘陵地帯が大半です。相模野台地を下ったあたりにあるのが藤沢宿なのです。
    
●藤沢宿は観光でも賑わいました  遊行寺の門前町

宿場の成り立ちは様々です。藤沢宿は時宗の総本山遊行寺の門前町として栄えていましたが宿場がおかれてさらに発展したようです。東海道だけでなく、大山詣から江ノ島、鎌倉、金沢八景に繋がる観光ルートでも賑わいました。おそらく現在より観光の影響は大きかったのではないでしょうかね。町の発展で残る遺跡はほとんどありません.

藤沢宿地図

Photo
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(1)遊行寺
    
鎌倉五平氏の流れをくむ俣野景平が開基しました。俣野氏は治承・寿永の乱で平氏につき戦います。その後の俣野氏の資料はほとんどありません。

時宗の総本山だけに造りも大きく、国宝を含んだ多数の宝物があります。一遍上人絵伝は是非ゆっくり眺めたいものです。時間をかける値打ちがたっぷりありますが、今日は走りが目的なのでまた後日。
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(2)遊行寺橋と広小路
遊行寺の門前は三大広小路の一つといわれ大変賑わいました。当時の広小路辺りに説明版がありました。
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・古地図
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この解説を見ていると遊行寺の賑やかさが想像できます。

・遊行寺橋を渡ったところからの写真 正面の森が遊行寺
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橋を渡ると右折しますが、その角に看板がありました。
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(2)藤沢御殿跡  江戸幕府の将軍の別荘のようなもので近郊にいくつかありす。私は武蔵小杉と仲木戸を確認しています。もっともどこも残っていません。右折して藤沢公民館の前に観光マップがありました。Cimg1140_2

街道にもどるとすぐ本陣跡が出てきます。


(3)蒔田本陣跡
街道を走り出して本陣もぼちぼち調べています。本陣の経営はボランティアのようなものですが、経済的な負担はかなり大きかったようです。試算を見たいのですがどこかにないでしょうかね。     
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次に立ち寄ったのは源義経首洗井戸です。

(4)伝 義経首洗井戸
鎌倉に送られた義経の首。首実検のあと片瀬に捨てられる。その首が境川をさかのぼってこの辺りの里人が拾い上げて洗った井戸だと。こうした伝承はいつどんな手続きで出て行くものなのか?義経人気は江戸時代からだと思うのですが。それ以前の民間伝承があったのでしょうか?
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(5)古い建物いろいろ
数は多くはありません。但し表通りしか見ていないもので。

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(6)上方見附跡 

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今日はこのあと平塚宿に向かいます。この間は距離が長い。

                  (2012年9月15日撮影・訪問)

旧東海道五十三次を走る (6)戸塚宿から藤沢宿

(6)戸塚宿を出発 平塚駅で終了   2012年9月15日

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戸塚宿上方見附跡から「大坂」を上ります。江戸時代はもっと高い位置まで上っていたようです。今はなだらかな長い坂になっています。
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登り初めに地蔵さんたちが集まっていました。
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松並木が登場し始めます。
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今の景色 やや雲が多いのが残念
Cimg1036_2 

坂を上ると「原宿」という大きな町名に入ります。坂之上の平らな土地で、間宿がおかれていました。
例えて言うなら高速のPAです。このあたりからはフラットで走りやすい。藤沢宿まではしばらく平地、最後に下ります。

・原宿一里塚跡  既に撤去されています。
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「俣野」は平安時代に関東に展開した平氏の武将の本拠でした。
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街道筋の古い屋敷が楽しみになってきました。街道にはまりだしたようです。
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鉄砲宿 こちらも間の宿
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お花畑好きですからほっとさせていくれます
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緑ヶ丘の旧東海道松並木跡
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松並木は今日の私にも木陰をくれました。
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遊行寺坂を下ります。
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すぐ先に一里塚の跡が登場します。標柱が上りで、解説版が下り。やめてほしいわ。道は渡れへんのに。
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さて江戸方見附につきました。遊行寺の車の入口に近いところでわかりにくい。
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少し暑さはましになりました。今日はこの後どこまでいけるかな?

■日本橋 → 藤沢宿 12里18町(49.1km)

東海道 五番目の宿場 戸塚宿 日本橋よりほぼ40kmです

戸塚宿は相模国に入って最初の宿場で、日本橋からの距離40Kmほどで昔の旅程では一泊目の宿です。
東海道が整備されたときにはなく川崎宿とともに1604年に出来ています。設置にあたっては次の藤沢宿がかなりの抵抗をしたようです。宿場間の距離が開きすぎるので当然のような思うのですが、文献を見ていないのでまたにします。

現在は宿場の中央にJR戸塚駅があり街道をを分断しています。駅前の再開発や有名な開かずの踏切解消でこれからもっと変化するでしょう。宿場としての戸塚は本陣が二つあり小田原に告ぐ旅籠数がある大きな規模でした。

戸塚宿地図

Photo
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(1)江戸方見附跡
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味わいのある建物がありました
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(2)戸塚一里塚跡
 少し進むと吉田一里塚の標柱が登場します。日本橋から十番目の一里塚ですから約40kmです。
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(3)吉田橋
 広重の五十三次には吉田橋がとりあげられています。今もある吉田橋の袂に浮世絵がありました。川の手前の道は鎌倉につながっています。
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私が好きタイプの銭湯がありました

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すぐ左折すると戸塚駅の西口に。私は直進し開かずの踏み切りを超えます。今日はすぐ開きました。但し半分進んだら警戒音がなりだしました。東口は駅ビルの完成で大きく変わりました。

(4)駅前すぐの場所に「内田本陣跡」があります。
  写真奥の建物が駅ビルです。少し進むと脇本陣の解説版が。
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(5)澤邊本陣跡
  澤邊家はこの場所にありました。
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公認されるのに当時の澤邊家当主は努力されたようです。本陣はボランティアですからえらいものです。
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(6)富塚八幡宮
 八幡宮らは戸塚の発祥伝説があるようです。古墳があるようですが確認できませんでした。
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(7)上方見附跡
 通りを挟んで左右に解説がありました。左車線のもの
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右車線のものです。

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残念ですが、戸塚宿も残っているものが少ないですね。

さてここからは大坂を登っていきます。

       (2012年9月15日・9月2日撮影・訪問)

静岡県韮山町の史跡 韮山城跡 北条早雲の関東進出

○5ヵ年に渡る伊豆平定戦

駿府興国寺城から堀越御所を襲撃し伊豆に入った伊勢新九郎(のちの北条早雲)は韮山城を本拠とします。
北条早雲は謎の多い人物です。この時代は記録が極端に少なく、都からは離れるに従って難しくなります。
早雲の一番の謎は“年齢”です。大器晩成の代表と認識されていましたが、さすがに80歳を超えて戦場に身をおくことは難しいでしょう。出自は備前伊勢氏に落ち着きつつありますが、生年も新たに材料が出てほしいものです。

伊豆平定ですが、30日程度で終わったというのが私の若い頃の理解でしたが近年では足利茶々丸と地元有力豪族の頑強な抵抗に5か年を費やしていることがわかってきました。これだと「箱根の坂」を駆け下り小田原に攻め込んだのは伊豆平定の途中ということになります。面白いですね。この方が戦国の幕を早雲があけたと受け止めやすい。伊豆は山が多く、海岸沿いのわずかな平地を都市化しています。これは当時もかわりませんから、平定戦も大変な手間が掛かったはずです。

○大津波がもたらした早雲の躍動

今回伊豆平定を調べている際に考古学者で教育委員会や大学講師をなさっている金子浩之氏の論文に出会いました。早雲が伊豆・小田原に攻め込んだ時期は数回に渡り相模湾の海底地震により大津波が発生していて西伊豆の宇佐美氏・伊東氏は津波でかなりの被害を受けたようです。小田原も同様でした。これであれば早雲がわずかの期間で伊豆を平定し、小田原を攻め落としたことが説明できると思いました。

早雲は没するまで小田原には入らず韮山城を本拠にしていました。伊豆が落ち着いていなかったのが一番の理由だったのかもしれません。

○韮山城

韮山城の正式な築城時期は不明です。早雲を初め後北条氏の重要拠点でしたが豊臣秀吉の小田原侵攻戦では約百日も持ちこたえたがついに落城します。最後は徳川の世になると直轄地になり廃城となりました。
現在残る縄張りは徳川時代のものです。城のある丘陵は大きなものではないので恐らく同様の使い方をしていたと思います。興国寺城を見た後なので同様の中世の城郭のにおいがたっぷりします。石垣がない東日本の城だからかもしれません。

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●史跡 韮山城跡

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蛭ヶ小島あたりから本丸を眺める
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蛭ヶ小島から韮山中学校の南側の道を右折して城跡の沼に出ます。
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途中曲輪の間の堀がみえます。
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城沼の周囲を回って虎口に至ります。解説版です。
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グーグルで比較mapを作りました。古図は18世紀のものです。
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熊野神社  この前を通り二の丸に向かいます
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雰囲気たっぷりです。古城跡の神社は独特の悲しさがあります。
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二の丸?
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空堀? 
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本丸から蛭ヶ小島(手前の鉄塔のあたり)や守山(やや左の小山)を眺める
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山は富士です。
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本丸跡
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解説版
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解説版2
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塩蔵に向かう尾根
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ちなみに 郷土史料館で頂戴した復元想像図です。これを見ると大手口は韮山高校側でしたね。
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韮山城が豊臣勢を迎え撃ったときには背景にある丘陵地に砦を築き連携した戦闘を行ったのでしょう。
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豊臣時代の武器や戦闘力でこの城だけで100日も防衛するするのは困難のはずです。小田原を囲んでいるので無理押しはしなかったのかもしれません。

■史跡 韮山城跡
所在地  静岡県伊豆の国市韮山韮山
アクセス 韮山駅から20分
                                                      きむらよしのぶ

旧東海道五十三次を走る (5)保土ヶ谷宿から戸塚宿

(5)保土ヶ谷宿を出発 戸塚宿で終了   2012年9月2日

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権太坂をひいひい言って登り保土ヶ谷宿の境木立場で一休み。境木地蔵尊前は風も通ってほっとする平地。
地蔵尊前から出発するとまずは坂を下ります。


・焼餅坂 
江戸時代、この坂のロードサイドには焼餅を売るお店があったようです。ここから一気に下ります。
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焼餅坂を下りまた坂を上ります。この辺りは上り下りが多い。しかし、丘の上の景色がよくて気持ちがいい。
丘を登り始めると両側に小さな森が登場します。一里塚の跡です。

・品濃一里塚
品濃一里塚は当時の状態のままで残っている数少ない塚です。一里塚は道の両側に塚を築きます。
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(南側から見た信濃一里塚。道が旧街道です。道幅も当時のままです)

片側だけ残っているものはありますが、品濃一里塚は両側が残っています。街道の道幅も当然当時のままですから立地や木陰で休憩するような雰囲気など味わい深い。一里塚は塚があるだけですから遺跡が出るようなものではありません。雰囲気を楽しみましょう。私はランニング途中なのでこのあたりで。
Map 
向かって左側が東塚。塚に上るのは先に進んで左折して回り込んだら公園入口が。西塚は直接上れます。
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西塚の標柱
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東塚の入口 岡の向こう側が街道です
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西塚にある案内板
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さてゆるやかに坂を上り右折すると東戸塚駅です。
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今度は信濃坂 下り坂です。この間は尾根歩きのようで景色がよい。
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この先は階段と路線橋に変わっています。
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信濃坂下の説明版
Cimg0434_3_2路線橋から北側の東戸塚駅周辺を眺めます
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このあたりで半分が終了。ここから先は普通に街中を走っているような景色です。国道1号線を渡ります。
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説明版が充実しているのでルートを迷うことはありません。今回調べてきていないので助かりました。

不動坂の手前に天然記念物のモチノキがありました。見事でした。

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国道一号線沿いを走っていましたが、だけ併走する旧道に入ります。
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街道筋の旧家が登場します。ぼちぼち宿場です。
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旧道からこの川沿いを通って再び国道1号線に戻ります。
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国道1号線に戻り、あとはひたすら一号線。走りにくいのが難点です。
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ファミリーレストランの前に戸塚宿の江戸方見附跡を発見しました。全く愛想ないですが戸塚宿に到着です。
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戸塚宿はなんどか来ていますが、見附から眺めるのは初めてです。

    

■日本橋 → 戸塚宿 10里18町(41.2km)

東京都の史跡 大森貝塚

今日はさくさくの営業同行。場所は大森です。帰り際に大森貝塚に立ち寄りました。

大森貝塚の発掘は西南戦争の真っ只中の明治10年6月です。西南戦争は武士による政権から広く市民が政治参加する国家感へ移行する最後の闘争でした。西南戦争は半年以上も続きます。明治政府の危機感は強かったでしょう。こんな国家存亡の時期に日本にやってきたのが動物学者のエドワード・S・モースです。
彼は腕足動物の専門家で来日後、東京大学の教授となり初期の大学の発展に大きな貢献をされました。
帰国されますが、その後も何度も来日され多くの研究成果を残されています。ちなみに進化論を国内で、初めて講義されたのモース教授でした。

モース教授は横浜から新橋に向かう車窓から貝塚を見つけます。まだ考古学という学問はありませんから外国人の彼だから問題意識を持ったのです。そして発掘が行われました。日本最初の考古学発掘でした。

「大森貝塚のモース」と聞くと彼が考古学者だと思う人が多いがこれは誤りです。まさか動物学者だとは思わないですね。

JR京浜東北線の海側は縄文海進時代には海でした。現在の線路付近まで海が迫っていました。貝塚とは縄文時代の村落のゴミ捨て場です。陸から海に向けてごみを捨てていたのです。

○場所
B
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○二つの貝塚跡

ムース氏が発掘した場所は彼が論文に明示しなかった為に長くはっきりしませんでした。その為わずかな距離の違いですが二つの貝塚碑がたっています。その場所が大田区と品川区に分かれているため、両区で長く論争がありましたが、最近の調査結果から品川区の発掘場所が正しいことに落ち着きつつあります。
正直なところ、喧嘩せずにお互いを尊重しあって伝説として楽しんでほしいものです。以下、2箇所を紹介します。

①大田区の「大森貝墟」

大森駅北口を出て大井町方面に歩きます。すぐ案内が目に入ります。右折して通路に入ります。

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ゲートはこんな感じです。
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階段を下りると解説板が登場
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石柱

電車の中からもみえます。たぶん車窓から発見したムース教授が見た光景に思いをはせる設計なのでしょう。重厚です。

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②品川区の「大森貝塚」
    
大田区の貝塚から少し北上すると大森貝塚遺跡庭園があります。
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かなり広い。
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このモニュメントの意味がわからないのですが、手が込んでいます。
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モニュメントを抜けると貝塚のレプリカがあります
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お子さんが「貝だ!」と遊んでました
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線路沿いに下りていくと有名な石柱があります
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モースさんです
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解説版
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ちなみに駅に戻ると大田区と品川区の貝塚がそれぞれのチラシを掲出されてました。この感覚は面白い。
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大田区の貝塚碑を偽者扱いにするのだけはやめてほしいものです。歴史・考古学をやったものはあの二つの石柱に心躍らせたはず。石柱そのものが歴史になっていますから。

■大森貝塚
所在地  太田区側 東京都大田区山王
       品川区側 東京都品川区大井鹿島町

アクセス 太田区側 山王口より徒歩5分
       品川区側 山王口より徒歩10分
                                                      きむらよしのぶ

「この三年間は惨めで苦しかった」 阪神金本選手の引退

    野村元監督が去り際の難しさを話されているのを聞いたことがあります。一流の選手は難しいのでしょう。

    私のような人間には頭ではわかるけど感覚では受け止められない。

    44歳、金本知憲選手が引退を表明した。広島・阪神ファンにとっては忘れ得ない選手です。

    特に阪神ではチームを変えてくれた過去にない功労者です。

    記者会見でタイトルの言葉、「この三年間は惨めで苦しかった」 を吐露されました。

    これだけの選手にこんな思いをさせたことを阪神球団・阪神ファンは大いに反省するべきだと思った。

    重いことばでした。忘れません。
                                                         きむらよしのぶ

静岡県韮山町の史跡 堀越御所跡 北条早雲の伊豆討入り

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                                    (興国寺城跡からみた伊豆の山々)


○二人の公方    

鎌倉を追われた鎌倉公方足利成氏は本拠を古河に移します。(茨城県の史跡古河公方館跡)
 
幕府は新たに足利政知を公方として関東に送りますが成氏の勢力は強く、箱根の坂を越えることが出来ず伊豆堀越に落ち着きます。これが堀越公方です。二人の公方の争いは続きますが、幕府も応仁の乱で関東に手が出せません。ついに幕府と成氏は和睦します。実に25年が経過していました。

和睦により成氏が再び関東の主となりました。堀越公方は和睦の条件として伊豆を譲られますが事実上一地方領主となってしまいます。撤収すればよいのですが25年もの戦いはしがらみも出来て簡単には京に戻れなかったのでしょう。 

○堀越公方の追放

足利政知は病没し後継争いが起こります。政知の子茶々丸が兄弟、母を殺し二代目に就任します。足利家はこうした争いごとばかりです。茶々丸は幼名です。元服前だったはずなので幕府からは公式に二代とは見られていなかったのかもしれません。

茶々丸が親殺しの結果伊豆の主となって二年後、駿河興国寺城の伊勢新九郎(北条早雲)が伊豆を襲撃し茶々丸を追放しました。これで堀越御所は滅亡します。

早雲が伊豆に乗り出したのは幕府との連携で、混乱の収拾が目的だったとの説が主流となっています。
茶々丸ですが、司馬遼太郎の『箱根の坂』では襲撃とともに逃げ出した設定でしたがしばらくは伊豆にいて、追放されたのは数年後というのが事実のようです。伊豆の回復を望み上杉などの勢力を頼っていましたが結局は早雲につかまり自害をします。
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●伝堀越御所

韮山に守山という古城があり北条氏のふるさとです。堀越御所は山麓にあった北条氏の館跡にあったようです。司馬遼太郎の『箱根の坂』で見たのが私の初見でした。

・伝堀越御所跡 公園整備の為に解説板のみでした
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実際の規模ははっきりしませんがかなり広大な領域のようです。しかし、堀越御所だと確実視する発掘結果は難しいでしょうから、「伝」はとれないでしょうね。

・周辺地図  解説版があるところは韮山駅から徒歩20分ほど。その跡守山の山麓を一周するのがいい。中世の匂いがたっぷりします。
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解説版たち1
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解説版2
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解説版3
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この解説版の通り向かいには北条政子の産湯の井戸があります。井戸は一般家庭の庭先にありますから気遣いが必要です。
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少し北側には頼朝が政子と新婚時代を送った屋敷跡の伝承地が成福寺になっています。堀越御所もこの地下に眠っているようです。
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       (2012年8月25日撮影:訪問)

■堀越御所跡
 所在地  静岡県伊豆の国市四日市
 アクセス JR韮山駅より徒歩20分
                                                    きむらよしのぶ

江戸四宿 千住宿

    今年、シーフォレストに入社したのアポイントで営業同行に行ってきました。午後からは北千住です。
    北千住は北関東に行くときの乗換駅で街中を歩くのは初めてに近い。といっても駅までのわずかな距離。


    江戸という町には多くの街道が通じていましたが代表的なものを五街道といいます。日本橋から五つの
    街道が四方につながっていたわけですが、北関東・東北へは日光街道・奥羽街道が伸びていました。
    江戸四宿とは日本橋を起点とした五街道の一つ目の宿場で、日光・奥州街道の一つ目の宿場が千住宿
    でした。

    千住宿は現在の北・南千住駅あたりの宿場で、荒川と隅田川に囲まれた地域です。
 
    ○千住宿 下記の地図の赤い線が街道です
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    ○問屋場跡、一里塚跡、高札場跡

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    そして本陣跡
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    本陣の解説板がありましたが、微妙な場所なので見落としそうでした。

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    賑やかな商店街です。宿場を想像させますね。
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    最後に千住の商店街は元の宿場の跡とうまく融合しています。東京ではこうした下町を感じられる宿が
    少なくなりました。今回はこれだけです。                          きむらよしのぶ

茨城県の史跡 古河公方館跡

今日は朝から北関東で仕事です。移動時間を利用して古河市に立ち寄りました。古河市は坂東平野の真ん中にあります。水運がよいのも特徴で渡良瀬川、利根川を利用すれば関東各地への展開が可能でした。関東のヘソといった場所ですね。このブログで初めての茨城県の史跡です。今日古河駅に着くまで栃木県だと思っていました。歴史的にも茨城県、栃木県、群馬県に関係しています。現在の市外局番は栃木県扱いで茨城県内
    の他地域は県間の通話扱いになっています。おもしろいですね。

・古河駅前の案内図Cimg0837

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○古河公方の成立と滅亡
   
関西育ちの人間には室町時代の関東の勢力図は、理解するのが難しい。わかりにくくしているのが「公方」という存在です。歴史上は鎌倉時代から使われたようですが、定義は時代によって変わります。足利尊氏は政権を京都と鎌倉のどちらにおくかを大変迷ったようです。結局、京都で幕府を開くのですが、勢力の基盤である関東を別の組織で統治することを決めます。鎌倉府の成立です。尊氏の次男基氏を関東公方として鎌倉に送り、甲斐以東(のちに東北も追加する)を統治させます。私はこの尊氏の決断がいまだに理解できません。先々問題が起こることは目に見えていると思うのですが。関東公方は地域統治の全てを行いますから、日本を分割するようなものです。かならず、組織ストレスが起こります。


関東公方は基氏の子孫たちが継承していきますが、次第に京の幕府と対立するようになり、鎌倉公方四代持氏は幕府と決裂し兵を起こします。鎌倉公方を補佐する関東管領上杉憲実は幕府側につき持氏と対立し持氏は自害し鎌倉府は滅びます。

○鎌倉府の再興と古河公方の成立

その後、この時の勢力争いは関東を混乱に招きます。幕府は持氏旧臣の鎌倉府の再興の願いを受けて鎌倉府を再興する。持氏の遺児成氏を五代鎌倉公方としました。しかし、これでも関東の諸豪族と関東管領などの緊張関係が続き、成氏はついに関東管領上杉憲忠を謀殺しあたらな乱が勃発します。戦乱が続きますが、成氏が鎌倉を離れている間に今川家が鎌倉を襲い、成氏は古河に本拠を移します。


このように古河公方はあたらに発生したものではなく、鎌倉府が流浪を始めた第一番目の“移動政府”と理解するのが妥当です。

室町時代の後半は戦国時代となりますが、関東の戦国の扉を開けたのは北条成氏でした。

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    ○古河公方館跡
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足利成氏が古河に本拠を置いた時の館跡です。2年後に古河城を築き移ります。それ以降の館跡の状態はわからないことが多いのですが、豊臣秀吉の時代に当時の公方がこの館に移されたようですので、なんらかの形で拠点はあったのでしょう。

ちなみに古河の町は渡良瀬川の流れが大きく変わった為、江戸時代の城下町も残っていません。従って公方館も残っていません。

・公園に入ると公方広場なるアプローチがありました 
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右に続く通路を歩くと
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館跡へのアプローチです。民家が再現保存されていました。撮り忘れました
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突き当たりに石柱がありました。この石柱のたたずまいは好きですね
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解説版です
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もう一つの石柱です
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石柱の後ろには土塁と空堀がありました
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周囲には沼地が広がります。周囲を沼地に守られた小高い岡が本丸に擬される部分です。
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光が緑を細かく照らしています。そろそろ秋ですね。
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縄張りを想像させる地形はたくさん残っていますから、足を運ぶ値打ちはあります。この後の古河城は渡良瀬川の土手や河川敷になっています。
   
・中世の古河城本丸跡
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念願の古河を訪問。成氏が古河に御所を移動させた為、幕府はあたらに公方を関東に送りますが、関東に入ることも出来ず、伊豆の韮山(北条)にとどまり堀越公方となります。私の旅もやっと韮山の公方に至りました。

堀越公方を襲撃し、これを追ったのは伊勢新九郎、北条早雲です。これはのちほど。

 ■古河公方館跡
   所在地    茨城県古河市鴻巣 古河総合公園内
   アクセス JR古河駅よりタクシーで10分
                                                         きむらよしのぶ

史跡 武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡 (1)東山道武蔵路跡

東京の府中市と国分寺市は古代の武蔵国の政治・文化の中心でした。武蔵国府や国分寺、国分尼寺など多くの施設の遺跡の発掘が行われ、歴史的な発見がなされています。この地域に出入りして10年以上たちますが、今回代表的な遺跡を訪ねることが出来ました。大変珍しい遺跡が多いので、数回に分けて紹介します。変なことを言いますが、生きているといろんな出会いがあるもので、関西のベタベタ人間の私が東京で仕事をすることになるとは思わなかったし、関東の史跡めぐりを楽しむなど考えられませんでした。能書きはこのへんで。まずは当時の“国道”の遺跡から。

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○全国七道と周辺案内図

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○東山道武蔵路
大化の改新ののち、国の統治は全国に及ぶようになりました。地図の通り、当時の武蔵国は東山道という地域に属していました。「道」というのは統治単位で、地域を通る国道の名前でもありました。都から武蔵国の国府(今日の県庁)に入るには、信濃国(長野県)から新田駅(群馬県)で南下します。武蔵国府からはもう一度同じ道を北上し、足利駅で右折して下野国(栃木県)に入っていました。新田駅からの南下道が武蔵路です。

この道は現代だと高速道路や鉄道のようなインフラです。群馬から東京を通って栃木に入る高速など現在では考えられません。当時もやはり不便と感じたようで、長くは持たず1世紀程度で間道に落ち、11世紀頃には鎌倉街道に変わったのか廃道になります。  

・12m道路    写真の正面の空間が当時の武蔵路で12mの幅がありました。
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400mに渡り古代の道路が発見されました。全国的に見ても珍しい遺跡です。道路の両端に黄色い不定形の形がありますが、それが側溝の跡です。発掘された道幅で保存されています。正面の平屋の建造物にレプリカが保存されています。

・レプリカ保存Cimg0663_2
・解説版
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・いつの時代の石柱かわかりませんが、センスいいですね。
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武蔵国分寺跡と共に史跡指定をうけています。単独ではありません。
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南の交差点を越えて一筋南下すると住宅街に武蔵路の続きの遺跡が保存されています。
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側溝が示されています。
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四期に渡る道の変化があります。当然ですが、よく残っていたものです。 
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武蔵路 解説版
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祭祀跡のようですが
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祭祀遺構は珍しいですね
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前後数箇所で発掘されています。今後も期待できそうですね。

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解説版 これが先の方が良かった
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道路面の正面にイメージイラストが掲示されていました。夢のある展示の方法でよく考えられてます。
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    (2012年9月9日訪問・撮影)

■史跡 東山道武蔵路跡
 所在地 東京都国分寺市泉町2丁目
 アクセス JR西国分寺駅より徒歩5分
                                                    きむらよしのぶ

東海道 四番目の宿場 保土ヶ谷宿

保土ヶ谷宿は相鉄天王町からJR保土ヶ谷駅を経て権太坂を登り相模と武蔵の境である境木までの間です。
現存する遺跡は少ないですが、国境の特徴的な宿場だと思いました。既に何度も走り・歩きをしていて、私としては好きな宿場です。権太坂がきついのが玉に瑕です。

○宿場の地図

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(1)江戸方見附跡
  江戸側の宿場入口跡。見附は公式な出入り口ですが、実態はこの外にも家があります。また宿場も成長をしたので、見附の位置づけがなくなってもいってようです。

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(2)旧帷子橋跡
  天王町駅前に橋が再現されています。帷子川の江戸時代の流れはこの橋の下を流れていたようです。
    
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この橋を渡って保土ヶ谷駅前の商店街を走り抜けます。
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(3)街道をおもわせる町並みになさっています。この先で昔の商店街に入ります。
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(4)ここに品川台場のネタがありました。幕末時期に今井川を改修した際に発生した土砂を品川台場を作る土砂として献上したとありました。情報はつながるものです。びっくり。
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(5)宿場の役所跡 助郷会所跡と高札場跡
  助郷とは宿場の仕事を周囲の村の民に割り振るのですが、これを助郷といいます。この役所は助郷の責任者があつまる役所です。
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(6)問屋場
  問屋場と本陣が宿場の役所の中心です。
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商店街を進むと、JRの踏み切りを超えて、街道が右折していきます。その曲がり角に本陣跡があります。

(7)本陣跡
  建物はありませんが、門が残っています。ちなみに本陣の家主さんも同地にお住まいになっています。
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(9)脇本陣跡
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当時は3軒の脇本陣がありました。
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(10)旅籠 本金子屋跡
   江戸時代の旅籠跡を手を入れて保存されていました。まだ入ったことかありません。

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(11)一里塚跡・上方見附跡
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旧街道は国道から離れて右側に入っていきます。

(12)元町
  その先が元町です。保土ヶ谷宿の初めはここから起こったようです。逆に現在の位置に移った理由もわかりません。
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元町を左折するとすぐ権太坂が登場します。箱根駅伝でも名前が売れましたが、駅伝で走るコースは新道でこの道がほんものです。

(13)権太坂
  この角度、わかりますかね?えぇ!という感じで登場します。登りきるまで500mほどです。
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横横道をまたぐ橋を超えて光陵高校の手前に解説版が登場します。おかげで休憩でたりして。
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このあとしばらく、丘陵の尾根のような場所を通ります。建物がなければ素晴らしい見晴らしだと思います。
あまりにしんどくて、写真をとるのを忘れました。

狭い、尾根道を抜けると境木の広場のような場所が登場します。

(14)境木立場跡
  宿場の間で人足や馬が休憩する施設が立場です。景色もよく、風が通って旅人にとっても心休まる場所だったに違いありません。
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     境木地蔵Cimg0402  「境」は武蔵国と相模国の境ということでした。
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この空間、昔の街道筋を想像させてくれます。私も一息入れて、戸塚宿に向かいます。
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       (2012年9月2日・2011年7月24日撮影・訪問)

東京都の史跡 品川第三台場

    お台場が出来、公園化されてある意味もっとも有名な湾岸遺跡です。私は先月、韮山を訪問し、この台場を
    設計した江川太郎左衛門英龍の育った地を訪問してきました。まだまだ英龍の事跡には疎く語れる資格が
    ありませんが、今日久しぶりに訪れて違う目で眺めてきました。
    ○レインボーブリッジからの史跡記念碑

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    ○レインボーブリッジから第三台場
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    ○未公開の第六台場

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    嘉永6年(1853年6月) ペリー艦隊が浦賀に来航する。時代が変わった瞬間です。 江川太郎左衛門は品川台場(今のお台場)建設を提案します。

    江戸防衛のための江川太郎左衛門英龍は観音岬などにも砲台をすえる広大な計画でしたが幕府に受け入
    れません。台場の築造は8月より始まり1854年7月に完成します。完成したのは5基の台場です。残りを作る
    前に日米和親条約が結ばれて必要がなくなりました。江戸は開港することがありませんでしたから、防衛拠
    点としてはずくに歴史の遺物となってしまいました。
    ○台場公園内にある解説版

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    ○台場内の遺構
    遺跡は多くはありません。そもそも複雑な構造ではないはずです。

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    ○入口

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    ○北側の土塁上をいく。何門の砲をおいていたのでしょうか?調べたのですがわからない。

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    ○西側の土塁

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    ○南角から眺める。

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    ○南側より。手前はかまど跡。真ん中は陣屋跡。

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    ○南側土塁上の砲台跡。幕末ではなく後世のものです。

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    ○弾薬庫跡
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    ■第三台場
    所在地 東京都港区台場1丁目10番
    アクセス ゆりかもめ「お台場海浜公園駅」下車、徒歩15分
                                                    きむらよしのぶ

レインボーブリッジから若洲まで走りました、20km

    今日は月一回の出社土曜。ミーティングを終えて「あとはよろしく」とランニングにスタートしました。

    品川からレインボーブリッジを渡り、台場、有明、新木場、若洲で東京ゲートブリッジを渡るコースです。

    往復すると30kmを超えるのでたぶん無理だと思いながらもご機嫌で走り出しました。

   ①レインボーブリッジの品川の入口です。7階までエレベーターです。

Cimg0538_2    
   ②歩道です。私、実は人口の高い場所は苦手です。ということで恐々走っています。
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   ③第三台場とお台場の町並みが見えてきました。


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   ④お台場に降りて、有明に入りました。有明アリーナです。
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   ⑤辰巳の公園に入りました。この場所よく撮影で使っています。有名なのはキムタクのヒーローのエンドロール
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   ⑥新木場に入りました。どこからでも見えますがスカイツリー。倒れそうです。暑い。
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   ⑦新木場に初めて入りました。若洲まではもう少しですが、珍しく太ももが張ってきました。
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   ⑧若洲に到着です。対岸には舞浜のホテル群が見えました。

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    ⑨ゲートブリッジに到着しましたが、観光バスがかなりのお客さんを運んでいて、並んでいました。
    汗だくのおじさんなので、ご一緒するのはあきらめました。
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    若洲公園です。キャンプ場もいっぱいみたいでした。折り返しますが、新木場駅で終了しました。
    筋肉痛です。珍しいのですが無理せず終了。会社に戻ります。
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     ゲートブリッジはまた今度。

    ●今日のコース  20km 
    ジョグノートにあげました。
    http://www.jognote.com/user/131076/classic?day_id=12872976

                                                    きむらよしのぶ

旧東海道五十三次を走る (4)神奈川宿から保土ヶ谷宿

    (4)神奈川宿を出発 保土ヶ谷駅で終了   2011年7月24日、2012年9月2日

                                     ブルーの線の道が旧東海道Photo_2     
    
    この工程は旧街道でなくても面白い。スタートは神奈川宿の京側見附上台橋から。横浜駅から徒歩だと15分
    ほど。ここから浅間下までの横浜駅側は海に面した風光明媚な崖上の街道でした。
    
    上台橋から少し走ると環状1号に合流します。

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    足元にはこんな標識が。
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    浅間下の交差点に到着。歩道橋を渡ります。歩道橋から軽井沢方面を
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    歩道橋からみなとみらい方面を

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    歩道橋手前には解説版が
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    神奈川区から西区に変わるとプレゼンが変わるので観察してから再出発
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    歩道橋を渡る公園があり、公園の北側の細い道が旧東海道です。私は多少の違いは気にしないので。
    ここから先は旧街道のにおいがしてきます。
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     神社は飛ばしました。こんな家屋が登場しだしました。
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    芝生追分
    追分とは街道の分基点のことです。東海道と八王子道の分岐点です。
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    やってきました、松原商店街。東京だとアメ横のようなところでしょうか
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    なんども来ています。規模もほどよくて。走っていることが多いので買い物はできないのですがね。
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    松原商店街を抜けると保土ヶ谷宿の江戸方見附跡がありました。
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    見附跡を過ぎるとすぐ相鉄天王町駅に到着します。

    

        ■日本橋 → 保土ヶ谷宿 8里9町(32.4km)

東海道 三番目の宿場 神奈川宿

“宿場”をはじめて私に認識させてくれたのは神奈川宿です。横浜を散策していく中で神奈川宿や生麦事件の旧跡に立ち寄るようになり、宿場の構造を調べようとセンター北の歴史博物館にも足を運びました。宿場跡には既に4,5回立ち寄っています。

横浜の湾岸は埋め立て地が大半で、現在の横浜駅は幕末までは海の中でした。当時の地形図に現代の拠点をアップしてみました。 
                            横浜実測図(所蔵:横浜都市発展記念館)
///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

神奈川宿は神奈川湊と一緒に機能していたようです。国道15号線の山側の道が江戸時代の東海道です。
国道の海側は海岸線でした。地形は埋め立てで変わりました。また宿場の真ん中を鉄道が通り、山を切り開いた為に町の構成が変わってしまいました。現存する建物もほとんどありません。関東大震災と空襲でほとんど焼けてしまいました。宿場に入るといくつかの地図があるので大変イメージしやすい。

一つ目 神奈川地区センターにあるジオラマ(幕末期の想像です)
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二つ目 「神奈川宿歴史の道」説明版から抽出(京急神奈川駅にあります)
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多くの宿場と同様  現時点で残っているのは「お寺」ばかりです。また幕末の開港時期の遺跡が中心なのも特徴です

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【宿場の規模】
江戸時代の家数1300軒、人口6000人。現在の神奈川区全体の人口が23万人強。江戸時代の全国の人口が3000万人程度らしいので、単純に3.5倍にすると神奈川宿に21000人。かなりの人口密度だったようです。
また宿場を端から歩くと約50分、3km強でした。

●ということで 神奈川宿

この地が宿場として成立したのは1601年。当時は川崎宿がなかったので神奈川宿を出ると一気に品川宿に向かうルートでした。集落の歴史は、残る寺社の伝承を読んでいくと、平安時代にさかのぼれるようです。
宿場の中央に幸ヶ谷公園があり、権現山古戦場跡として戦国前期の城郭跡があります。
(過去の記事:横浜市の城跡 権現山城跡 北条早雲の戦いの跡
     http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-c36b.html)

○オランダ領事館跡、土居
江戸側の入口は、京急神奈川新町のそば、駅にならぷ公園がそのあと。幕末にはオランダ領事館もありました。
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線路沿いに進みます。
         
○笠のぎ稲荷
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○東海道壁画
京急仲木戸駅からすぐの神奈川小学校の壁画に、『東海道分間延絵図』の神奈川宿部分が描かれています。

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フランス領事館跡(慶運寺)
浦島伝説とフランス領事館跡、浦島伝説は以前紹介しています。
    (過去の記事:横浜の浦島太郎遺跡 蓮法寺と慶運寺
    http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-7b16.htm)l

開港当時フランスの外交責任者は「領事」だったのでしょう。恐らく開港してすぐ領事から公使に昇格があったようです。
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○アメリカ人宣教師宿舎跡(成仏寺)
ヘボン式ローマ字でおなじみのヘップバーン。医師でもある宣教師の彼の宿舎
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○高札場
復元されたもので、実際は国道15号線に出たあたりにありました。
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○神奈川本陣跡と青木本陣跡
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○ヘボン博士 施寮所跡(宗興寺)
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○イギリス領事館跡(浄瀧寺)

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当時はこの寺の横浜側は権現山で宿場のはずれまで丘陵でした。今は小高い岡程度になっています。
街道は国道15号から右に入ります。
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○須崎大神

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○イギリス仕官宿泊所跡(普門寺)
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○フランス公使館跡(甚行寺)
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甚行寺を過ぎると、視界が広がります。神奈川駅が登場し、JR・京急の線路が町を切り開いています。
幕末は山が続いていました。切り取った土砂は港の埋め立てに使われました。
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○アメリカ領事館跡(本覚寺)
青木橋を渡ると正面の岡には本覚寺が見えます。今もそうですが、当時の景色は抜群だったでしょう。

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    (過去の記事:横浜市の史跡 神奈川宿 本覚寺 アメリカ領事館跡
    http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-d407.html)
    
領事館跡からは、旧のメインの街道と岡を登る道が登場します。先に岡を登ります。一般には高島易学の方が馴染みがあるかもしれませんが、幕末・明治の豪商で横浜の開発に大きな尽力をした高島嘉右衛門の別邸がありました。みなとみらいの「高島町」に名を残しています。横浜の埋立、鉄道施設などを請負、現在の横浜の基礎をつくりました。

○高島嘉右衛門別邸跡
公園になっています。ビューは抜群ですが、写真とり忘れました。
110717_131240 嘉右衛門別邸付近からみた青木橋。真ん中に橋があります。橋の向こうは全て海中でした。
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岡を降りて街道に戻ります。ここからは上り坂になります。広重の五十三次の構図が残っています。
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道の左側は現在、横浜駅の繁華街です。この道とは段差がかなりあります。左に折れて昔の海中から撮影しています。
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○田中屋
徒歩だと5分程度で「田中屋」さんが見えます。屋号は変わっていますが、広重の絵に見える状態で現在も営業されています。
Photo     (過去の記事:横浜市の史跡 神奈川宿 田中屋  坂本竜馬の妻「おりょう」
     http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-bdcd.html )

○神奈川台町の関門跡
坂をほぼ上りきると、幕末にあった関門跡が登場します。生麦事件を初め、外国人に危害を加える事件が増加し、保護の為にできた施設でした。宿場の京側の見附はまだ先にあるはずなので、領事館の密集する地域を囲い込んだのでしょう。幕末の一時期はどの程度の外国人が宿場にいたのでしょうね。
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    (過去の記事:横浜市の史跡 神奈川宿 神奈川台の関門跡
    http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-77d0.html )

坂をくだって上台橋に到着。ここが見附の跡のようです。

    (2012年09月2日・4月18日、2011年8月28日・7月24日・7月10日撮影:訪問)

旧東海道五十三次を走る (3)川崎宿から神奈川宿

    ○川崎宿を出発 まずは神奈川宿まで 2012年9月2日

    川崎宿の京入口(見附)跡を出発し京急八丁畷に到着しました。ここに松尾芭蕉の句碑がありました。

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    芭蕉は大津にもなじみがあるので、一度調べてよみようと思いながらも今に至っています。
    ●鶴見川を渡ったところに掲出されている地図から

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     細長いので半分にしてアップしました。
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    八丁畷の由来
    駅の北側に解説版がありました。
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    旧街道を想起させる家屋が登場してきました。

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    すぐ先に「市場一里塚跡」が登場します。
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    解説版  日本橋から五里目の塚です。塚そのものは残っていません。

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    鶴見川を渡ります。
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    渡ってすぐあるのは「鶴見橋関門旧跡」があります。幕末に成立した門です。
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    解説版
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    鶴見は間の宿として発展します。正式な宿場ではありませんが、問屋のような機能も果たしていました。

さて宿場を抜けて国道を越えます。登場するのが国道駅です。よく撮影もなされているひなびた駅です。

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    いよいよ登場するのは幕末の生麦事件です。事件は以前の記事を参照ください。(横浜市の史跡 
        生麦事件http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-dc73.html)
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    国道に出て、進むと「日本橋が26km」の表示が出てきます。あと2kmほどで神奈川宿に到着します。
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      ■日本橋 → 神奈川宿 7里(27.5km)                                                     
きむらよしのぶ 

東海道 二番目の宿場 川崎宿

○宿場 川崎

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多摩川に掛かる六郷橋を渡り、神奈川県に入りました。橋を降りると川崎宿の入口です。東海道を走り出して、“宿場”というものがわかってきた。自然発生的な集落形成の一つだと思っていたのですが、実は政府が公式に編成した街だったのです。現代でいえば、高速道路のSAやJRの大型駅のような役割をしていたものです。一種の公的機関なので、宿場の周囲には助郷とよばれる作業代行業務が発生していました。後半は税金を納めることで代替することが多くなったようです。

川崎宿は当初設定されていませんでしたが、品川宿と神奈川宿の距離が長く不都合な為1623年に設置されました。宿場の公的機関としての仕事は宿場の奉仕、また周辺住民の助郷に頼る為大きな負担を地元が背負うことになります。おかしな話ですが、街道を往来する交通量の増加でどんどん負担が大きくなり財政を圧迫したそうです。現代の川崎の繁栄からは想像もできません。
    ○宿場map

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残っている遺跡はほとんどありませんが、掲出看板やMAPなどの整備はなされています。今も繁華街なので、なんとなく宿場を歩いている気分になれます。

    この石柱はいけますね~

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    田中本陣跡
    問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた田中休愚は、宿場の維持の為、幕府に働きかけ、六郷の渡しの
    権益を川崎宿のものとしたり、さらに救済金を取り付けるなどをされました。今に続く川崎の恩人ですね。

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    歌川広重 「東海道五拾三次 川崎」 六郷の渡しが描かれています。

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    砂子の里資料館
    実質、宿場の資料館です。オープン前でした。残念。

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    古い宿場の解説版
    宿場の範囲はこの地図がわかりやすい。

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    一部を拡大してみました。

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    中の本陣跡 走っているから見落としそうです。

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川崎駅前の道を渡るとこの看板。だが意味がわからない。名前がついていたのかな?    
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川崎大師と東海道をつなぐガイド
六郷の渡しを渡ったあたりは川崎大師への入口でもありましたから、長く続いてお店が多かったようです。


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佐藤惣之助生誕の地(佐藤本陣跡)
惣左衛門本陣ともいわれました。明治の詩人佐藤惣之助がこの家で生まれ、戦前にかけて活躍し、「六甲おろし」「人生劇場」など、有名な歌の作詞をしました。

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史跡東海道川崎宿京入口
京都側の土居による門がありました。夜は閉めていたようです。この門までが政府施設としての宿場町です。宿場は段々規模が大きくなりこの門の外にも広がっていきます。

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町としてはこの先の八丁畷が境ともいえますが、私は見附(門・入口)を基準に切り分けていきます。
さて、次の宿場は、神奈川宿です。
    (2012年9月2日撮影:訪問)

東京都調布市の史跡 下布田遺跡と狐塚古墳

よく仕事で足を運ぶ調布市は多摩川沿いの低地(沖積地)と武蔵野台地で構成されています。JR南武線矢野口駅から多摩川原橋を渡り10分程度歩くと段差が出てきます。これが府中崖線で通称「ハケ」と呼ばれています。府中崖線は立川から府中・調布を経て狛江まで続いています。縄文海進(19000年前から6000年前)の時代、崖線の上は陸地でしたが、多摩川に近い部分は海面下でした。東京、千葉の湾岸は当然、遠くは栃木の南部まで海が入り込んでいました。ハケに沿って古代遺跡が点在しています。最近はこのあたりを歩くのが楽しくで仕方ない。ということで代表的な遺跡である下布田遺跡を紹介します。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// 【下布田遺跡】

縄文時代の晩期の遺跡で、大変珍しい土製耳飾が出土しました。重要文化財に指定されています。

    

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    方形配石遺構(たぶん墓)や生活に使った土器、美術品のような耳飾など生活や社会習慣のようなものを
    推測できる貴重な遺跡です。遺跡は保存されています。今後は公園化を計画しているのかも。
  
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ただの原っぱみたいです。こんな場所は少なくなりましたが。

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時代が下がりますが、周辺には5世紀から7世紀の古墳群がありました。中でも最大のものが狐塚古墳です。
下布田遺跡と古墳群、時代の測定が難しいですが1000年近く年月この地で経過しています。人間は偉大です。
現在も調布は住宅地ですが、縄文の時代から住みやすい場所だったのでしょう。

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狐塚

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解説版からピックアップ

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郷土博物館分室です。本館は京王多摩川駅の近くにあります。こんな近くに分室とは、調布市にとってこの遺跡群がどんな意味があるのかがよくわかりますね。

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とっくにアップしていると思ったら、上げるのを失念していました。
(2012年03年24日撮影:訪問)

■下布田遺跡
  所在地  調布市布田6-61
  アクセス 京王線布田駅から徒歩15分前後

2

旧東海道五十三次を走る (2)品川宿から川崎宿

    (1) 品川宿を出発 梅屋敷駅で終了   2012年8月26日

    品川宿を出て、第一京浜をまっすぐに川崎に向かいます。ところが途中で脱水症状になってしまった。
    水分補給をしても乾きが収まらない。ということでこの日は梅屋敷駅で終了し帰宅。

    (2) 梅屋敷駅を出発 川崎宿終了   2012年9月2日

         前回途中で断念した梅屋敷駅からリスタート。川崎宿を目指します。

    昨日からいやな天気、急に雷雨があったりで迷いに迷いましたがとりあえずやってきました。ちなみに「梅ちゃん
    先生」は蒲田が舞台なのですね。

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    梅屋敷駅から第一京浜を南下します。すぐに出てきたのは梅屋敷の由来になった文化財公園です。

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    公園内には日本橋からの距離をあらわす石碑がありました。
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    梅屋敷は明治期にも華やかな場所だったようです。

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    六郷に近づいて小雨が降ってきました。

Cimg0216 
    六郷神社 
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    六郷の渡し跡
    江戸の入口になる渡し場の跡です。渡しの知識では東海道に架橋はなかったように思っていましたが、
    そんなことはなかったようですね。六郷にも架橋の実績があったようです。この解説版は六郷橋の付け
    根に北野神社がありそこにありました。わかりにくいです。

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    六郷橋 渡れば神奈川県川崎市です。
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    川崎宿は橋を渡り終えたところから始まります。

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                                                                            (2012年9月2日撮影:訪問)

      ■日本橋 → 川崎宿 4里18町(17.7km)

東海道 一番目の宿場 品川宿

八ツ山橋を越えて京急電鉄の踏切を過ぎたあたりから品川宿です。日本橋からわずか二里、江戸郊外の行楽地といった宿場です。京急北品川駅から青物横丁駅の間がだいたい宿場だったようです。

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町は道幅の拡張もなく商店街として賑やかです。下町の商店街としてなにやら宿場の時代を創造させてくれます。宿場の入口にある「まち歩きマップ」です。街をあげて一生懸命のようです。
  
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品川は江戸中だと思っていましたが違ったんですね。だから、幕末の志士たちはこの町に集まったのだと知りました。ちなみに江戸に向かう大名は品川で装束を整えて江戸入りしたようです。江戸から出る時はどんな使い方をしたのでしょうか?

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幕末に志士たちが集まった有名な土蔵相模の跡です。北に吉原という歓楽街がありましたが、品川にも岡場所があったようで、繁栄したのはたぶんそれが理由でしょう。

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問答河岸 三代将軍徳川家光と沢庵和尚の問答が有名ですね。脇の道は下りになっています。今は埋め立てられていますが、江戸時代は宿場の家々のすぐ裏は海岸線でした。

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台町横町
幕末に海岸線防衛の為に「台場」が築かれました。第三台場、第四台場は現存します。この通りを進むと台場という住所が出てきます。埋め立てられましたが痕跡があります。またゆっくりやってきます。          

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品海公園
昔は一里塚があったようです。日本橋から2里ですから8kmです。

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本陣跡 公園になっています

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品川橋 目黒川に掛かっています。ここが北品川と南品川の境目です。

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南品川の解説版

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新撰組もよく利用した幕府御用宿釜屋跡

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立会川駅前の坂本竜馬像

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浜川砲台跡 竜馬がらみの史跡です。

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この宿場でもっとも印象的なのは、宿場場外れの「鈴ヶ森刑場」です。

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丸橋忠弥、天一坊、白井権八など芝居にもなった有名人が多数この地で処刑されています。東海道に面した処刑場で見せしめ意味が大きかったのでしょう。

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品川宿はまだまだ攻め応えがありそうですがまた今度です。
    (2012年08月26日撮影:訪問)              

                                                   きむらよしのぶ

旧東海道五十三次を走る (1)日本橋から品川宿

数年かかるでしょうが、全工程を走ります。所用のついでのこともあるので継ぎはぎにもなると思います。

東海道五十三次は東京の日本橋から京都の三条大橋を繋ぐ江戸期の国道です。すべてのルートが残っているわけではありませんが、地域の町おこしとして整備が進んでいます。出来るだけ旧道路をトレースしたいものの寸断されたところもあるのでこだわらずに京都三条を目指します。
    /////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

(1) 日本橋を出発 品川宿まで   2012年8月26日

起床して思いついて日本橋に向かう。朝から太陽が凄まじい。

日本橋は江戸時代に五街道の起点として整備されたもので、現在も道路の基点になつているそうです。

日本橋の橋の袂に越後屋が出来たのは17世紀の後半のはず。越後屋とは現在の三越の前身です。
当時は呉服屋さんです。その後両替屋にも展開をはじめその後の三井グループの基盤ができます。

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その越後屋さんは百貨店に形を変えてますが現在も日本橋を見続けています。

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2cimg0038     
日本橋を出発します。中央通り、国道15号をひたすら南下します。京橋、銀座を通ります。いきなり華のあるコースですが、昼からだと人が多くて走れません。

銀座の和光です。ちょうど10時に通りぬけました。

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新橋を過ぎて、芝の増上寺を右にみます。なんども立ち寄っているので今回はこれだけです。
ちなみに新橋からは第一京浜に道路名が変わります。

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田町に近づきました。芝五丁目の交差点の海側に幕末の勝海舟と西郷南洲会見之地があります。
当時の薩摩藩邸の跡です。当時は第一京浜のすぐ左側は海が迫っていました。

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高輪に入ります。高輪大木戸跡という交差点が出てきました。木戸つまり町の入口がありました。
江戸の南側の入口ですが、何度か移転をしているようです。江戸時代の一時期パリより人口の多い世界一の都市でした。木戸の移転は人口増加によるものなのでしょうね。江戸時代の後半には木戸としての機能はなくなっていたようです。

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高輪大木戸を過ぎて次の交差点を右、山側に入ると忠臣蔵で有名な泉岳寺が出てきます。久しぶりなのでよってきました。
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赤穂浪士の墓です。お墓が観光地になるのは日本の特徴のようです。
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品川駅前を抜けるとすぐ八ツ山橋が出てきます。ここからが品川宿です。

■日本橋 → 品川宿 2里(7.9km

神奈川県川崎市の史跡 小沢城跡と枡形城跡

○小沢城 枡形城 周辺地図

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私は川崎市の鷺沼に住まいしています。仕事でよく調布に向かいますが、その間に2つの中世の城跡があります。小沢城と枡形城です。両城とも多摩川に近い丘陵地に存在し、その歴史は長い。

城主は小沢郷を領した稲毛三郎重成。妻は頼朝の御台所政子の妹で、頼朝の重臣として活躍します。
幕府が出来てしばらくすると重成は入道となり、自分は隣の枡形城に移り小沢城は長男の小沢小太郎重政に譲ります。その後の歴史ははっきりしません。

両城は交通の要衝にある為、たびたび合戦の舞台となりました。明確なのは次の3つの戦いです。

1333年新田義貞と鎌倉防衛軍の分倍河原の戦いです。分倍河原の戦いに勝利した義貞軍は小沢城を占領し鎌倉攻略に向かいます。

1504年北条早雲が山内上杉顕定を打ち破った戦い。相模を征服した早雲はこの戦の勝利以降関東制覇に乗り出していきます。

1530年北条氏康が扇谷上杉朝興を初陣に破った一戦。

それぞれ合戦の実態ははっきりしませんが、要衝にある両城が時代を眺め続けてきたのは間違いないようです。残念ながら、ともに残る遺構は多くはありません。

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○小沢城跡アクセスマップ 京王稲田堤から25分程度です
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小沢城がある丘陵は駅から見えています。丘陵沿いの道をいきます。
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ここが城跡に上る道です

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整備された道を5分程度上ると尾根にこの看板が。左右に城跡が広がります。まずは右のルートへ

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すぐ空堀跡が出てきます

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物見台跡

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城の最高位、浅間山

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本丸跡のようです
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縄張りです

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戻ってさきほどの尾根に先に進むと解説版があります

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石柱です。この碑はおしゃれですね。珍しい

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このあたりは馬場跡といわれています

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解説版

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決して広くはありませんが、丘陵の尾根をうまく使った中世の砦といったところでしょう。夏の訪問でしたのでビューが悪くて残念です。
    (2012年8月22日撮影:訪問)
 
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○枡形城跡のアクセスマップ

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枡形城は生田緑地内に公園として整備されています。残念ですが歴史的遺構は残っていません。


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○山頂広場には矢倉があります。

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○枡形山山頂の石碑

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○矢倉からのビューは抜群です
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○調布、深大寺城方面を眺める。真ん中の森は武蔵野崖線(ハケ)です。当時は深大寺城が見えたかも?

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立地は素晴らしい。当時は攻めがたい城だったのでしょう。
    (2012年5月12日撮影:訪問)

■小沢城跡
 所在地 神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目
 アクセス 京王稲田堤より徒歩25分、京王よみうりランドより15分

■枡形城跡
 所在地 神奈川県川崎市多摩区枡形6-4740ほか(生田緑地内)
 アクセス 小田急線「向ヶ丘遊園駅」南口下車、徒歩15分

フジサンケイクラシック2012 富士桜カントリーに行ってきました

    富士桜カントリーは4年ぶり? はっきり覚えていないが久しぶりです。石川遼が一打足りずに予選落ちです。
    関係者はがっかりしているでしょうね。

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    また、今朝から突発的な雷雨があり、客足は伸びないだろう。鷺沼を8時出発をしたのですが、東名高速では
    数箇所で事故、御殿場を降りるといつものように原因不明の渋滞がしばらく続きます。

    やっと到着したのは11時半。まいりました。そして、やっぱりギャラリーが少ない。こんなに少ないのは最近に
    ない。
    しかし、それを思うと石川遼の登場は商業的にも素晴らしい成果を収めています。今日のゲーム、石川が
    決勝に残って最終日まで優勝争いをしたら、一日1万人ぐらいのギャラリーが違うと思います。一人一万円
    落としてくれるとすると一日一千万の利益がプラスされる。

    見たかったなぁ、石川遼。
                                                          きむらよしのぶ

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