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2012年5月

古都鎌倉 no.4-4 大仏切通

鎌倉七口も5つ目。大仏切通です。長谷大仏から近く、アプローチは容易です。距離は短いのですが野趣あふれる佇まいで値打ちがありました。

大仏切通の成立時期はわかっていません。新田義貞の鎌倉攻略て戦闘がないことや、鎌倉を訪ねる紀行文に登場しないことで実在を疑う向きもあるようです。足を運ぶと、常盤地区に抜ける為に生活道路はずっとあっただろうと思いました。また新田軍は梶原に本軍を置いていましたが、この切通までには距離がある為、化粧坂に向かったのだと思いました。鎌倉軍の防衛ラインとしては内側のラインになっていたと思います。


現在の切通は明治期に大幅に拡張修復されています。またその後の関東大震災で大きな被害を受けて、大きなダメージを負っていて明治期の痕跡もわかりにくくなっています。そのおかげで手が入っていない味わいが感じられてよりよいものになりました。

     
●大仏切通 map (青いルートです)

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①江ノ島電鉄長谷駅から鎌倉大仏に向かって歩き出します。鎌倉大仏を過ぎて5分程度で大仏隧道が現われます。
トンネルの右側にハイキングコースの入口があります。これが大仏切通へのルートです。

この階段です
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すぐ分かれ道です。
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序盤はこうした階段が続きます。すぐ終わります。
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5分程度で標柱が出てきます。
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標柱
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「日の見下」への案内が出てきますから、そちらに向かいます。
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なんとなく切通のにおいがしてきました。道の真ん中に大きな石が。名越切通にもありましたが、あえて障害を設けているのでしょうね。

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解説版 ということはこちらが入り口なんですね。

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やぐらが見えています。墓ではなく、守備用の何かともいわれているようです。
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距離はわずかです。長谷から歩きましたが、常盤側の日の見下から入るほうがわかりやすいと思いました。
     
                                                                                                                (撮影:2012年5月13日) 

                                             きむらよしのぶ     

三重県の史跡 絶品! 田丸城跡

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伊勢神宮の帰りに看板を見て「田丸御所や」と思い足を向けました。有名ではありませんが、足を運んで自分の認識不足を知りました。中世城郭を戦国様式にとりこんだ城郭で縄張りの保存もしっかりしています。全国レベルの城跡だと思いました。このお城、絶品でした。この機会に織田信長の伊勢攻略を調べてみました。


織田信長は18歳で家督を継ぎ、本能寺でなくなったのは50歳。“天下布武”の躍動は32年間だったんですね。18歳からの約10年間は尾張の制圧と岐阜攻略に費やされました。岐阜を得た信長は飛躍します。信長の上洛戦は歴史の華ですね。美濃を得て北近江の浅井家と結び一気に京にのぼります。各地の武将は驚愕したでしょう。
反信長勢力は連携して蜂起し三河以外の全ての国境で戦いが始まります。

伊勢は織田軍の本拠尾張・美濃は隣国で、東海道が通っており、戦略上信長は重要視していたはずです。


●信長の伊勢侵攻戦

美濃を手に入れた時期、信長は伊勢に兵を送ります。当時伊勢国の勢力は北部・中部・南部に分かれていました。
北部は小豪族群、中部には関氏や長野氏、南部は北畠氏が展開していました。織田家の伊勢方面軍は滝川一益が指揮をとり、多方面で敵を抱える織田軍は6年をかけて伊勢を手に入れます。

途中、最も尾張よりの長島で一向一揆が起こります。織田軍が伊勢侵攻を始めてからも長島は敵対することなく、静観していましたが、大坂の石山本願寺攻めを開始した段階で、連携して織田軍に攻撃久を開始します。
この話題は切りがないのでこのへんにしておきます。

長島一向一揆を鎮圧した信長は、いよいよ南伊勢の北畠家に侵攻します。この時点で信長は上洛して、すでに大勢力となっていました。北畠家も迷ったでしょう。戦闘が開始されますが、次々に落城していきます。最後は、和議を結びますが、条件として信長の次男信雄が北畠家を継ぎます。戦闘を続ける被害より内部に入り込んで崩壊を狙う信長らしい戦略だったのでしょう。この後。北畠家の血縁者は次々と謀殺され、完全に織田家にとりこまれます。伊勢制圧後信雄が居城としたのが田丸城です。ちなみに、織田信長にとって伊勢攻略の一番の収穫は九鬼水軍を手に入れたことだと私は思っています。九鬼義隆によって石山合戦が多いに進みます。


●田丸城の歴史

延元元年(1336)、南朝の指導者だった北畠親房がこの地に築城したのが始まり。伊勢神宮の守護や伊賀から京都に通じるルート、南北朝時代は吉野の南朝に入る入り口の一つとしても重要な拠点だったようです。
室町時代には多気館(多気御所)を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となっていた。

天正3年(1575)織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が、玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には3層の天守閣を建て、田丸城と改称した。
天正8年(1580)には、放火によりこの天守閣をはじめ城は全焼し、信雄は松ヶ島城を築いて移った。

その後、玉丸直昌が修築し、稲葉氏、藤堂高虎と領主が変わります。


江戸時代は紀州藩の飛び地となり、家老の久野宗成が代々城代を勤め、明治を迎えた。


城は、明治2年(1869)に廃城となり、同4年(1871)には城内の建物は取り払われた。

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<田丸城址>

○大手門 門を入って左側に玉城町庁舎があります。Cimg6663_2    
○大手門にある玉城庁舎。大河ドラマは町おこしなんやね~
 車は庁舎の駐車場に止めてスタート。はるみちゃんは車で休憩。

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○外堀

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○石柱 大手門を入ると正面に。ここから上っていきます。

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○内堀 外堀と比較すると若干幅が狭い。

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○富士見門(長屋門) 城内に残る唯一の建築物。江戸時代中期の門で一旦城外に払い下げられたものを昭和に入り再び移築復元したものです。玉城町指定有形文化財でした。

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○旧三の丸付近から本丸・二の丸をのぞむ。数台分の駐車場がありました。

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○旧三の丸にある解説版

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○地図を取り出しました。中世の典型的な平山城です。三の丸付近は町立玉城中学校がたっています。

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○本丸虎口 アプローチ

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○本丸虎口 解説版

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○ここを抜けると右側が北の丸、左側に本丸が広がります。

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○北の丸跡  稲荷神社がありますが広場になっていました。

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○本丸へのアプローチ  石垣が美しい。

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○二の丸跡

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○北の丸付近から南に広がる町と石垣 高さがわかりますか? 絶景です。

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○北の丸付近からの真下。土塁があるのがわかります。

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○本丸北側の石垣

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○本丸付近より西側を眺める 平野の先は伊勢湾です。

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○南側

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○本丸にある天守台跡

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○天守台 地下倉のあとのようです。

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○天守台から本丸を眺める

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平野部の孤峰で絶景です。ドラマロケになりそうです。縄張りもしっかり残っています。かなり値打ちありました。
                           (2012年5月5日訪問:アップするのを忘れていました)

■田丸城址

所在地   三重県度会郡玉城町田丸字城郭

アクセス JR参宮線田丸駅から、徒歩約10分
   
○地図
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                                                   きむらよしのぶ

古都鎌倉 no.5-4 鎌倉党武士団 長尾氏と長尾台砦址

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                                                    鎌倉党 五平氏の拠点MAP

    ■長尾氏と上杉謙信

    鎌倉権五郎の子孫が長尾次郎と名乗り、この地に入ったのが鎌倉長尾氏のはじまりです。頼朝の挙兵時は平家方
    として源氏と戦います。頼朝が鎌倉に入った後は三浦氏に預けられます。御家人とはなるものの三浦氏の被官で
    もあり鎌倉時代にはふるいません。宝治合戦に三浦氏と行動を共にし没落します。各地に傍系長尾氏が存続しま
    すが、節目が変わったのは親王に供奉してきた上杉家との関係ができたことです。室町時代には関東管領上杉家
    の家宰として勢力を拡大します。一方地方進出した中に史上有名な武将が登場します。越後長尾氏の長尾景虎、
    後の上杉謙信です。歴史は面白い。まさか謙信の名が出てくるとは。

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    ●長尾台峠址

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    大船駅から徒歩20分。途中城址の丘陵が見えてきます。発掘調査も十分ではないようですが、南側に高台がある
    ので本丸はそのあたりかもしれません。

    目印は長尾台御霊神社です。長尾氏がこの地に入った時に村岡御霊神社から勧進したものです。鎌倉にはたくさ
    んの御霊神社があります。鎌倉党武士団が先祖の鎌倉権五郎をいかに大事にしていたかがわかりますし、権五郎
    の英雄ぶりが感じられます。

    ●参道入り口 案内がありませんからわかりにくい

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    ●境内から見下ろした参道 かなりかわいらしい

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    ●社殿の前はゲートボール場になってました。こういうの大好きです。

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    ●本殿に掛かる由緒書

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    ●社殿横の解説版  上杉謙信の祖で説明していました。

Cimg7174_2 
    ●郭? 社殿周辺には郭を想像させる平地がつながっています。

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    ●もう一つの解説版
    御霊神社のぶらんこ側から本殿裏の道に出て道なりに進むと出てきます。

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    最後は後北条氏に属し、尾根伝いに築城された玉縄城の出城でした。小田原攻めの後、廃城となったようです。


【長尾台砦址】

所在地  神奈川県横浜市戸塚区長尾台
アクセス JR大船駅より徒歩20分、バスなら長尾台バス停より5分
                                                きむらよしのぶ

 

古都鎌倉 no5-3 鎌倉武士団 村岡氏と2つの村岡城址

Map_2                                                     鎌倉党 五平氏の拠点MAP

■坂東平氏の祖 平良文
鎌倉権五郎の先祖は桓武天皇で、臣籍降下した後裔が関東に下ります。茨城・千葉が中心でしたが一部のものが武蔵・相模に進出します。それが平良文(村岡五郎)です。

平将門の時代で兄弟や同属は将門との戦いで滅びます。良文はまず群馬県熊谷市村岡に着任し緊張関係にあった武蔵の安定に力をつくします。その功で陸奥守に任官し鎌倉の村岡に居を移します。当時陸奥守は相模にいたそうです。こうして良文とその後継が鎌倉に根をはることになります。

        
■良文と一族の住まい
良文の住まいには複数の説がありますが代表的なものが現在の村岡御霊神社、村岡城址です。
当然引越しもするでしょうし、家族が増えて屋敷も増えるでしょうから転々としたのでしょう。良文の孫(or曾孫)と推定される鎌倉権五郎は村岡城址付近で生まれたようです。恐らくこの地に荘園があったはずで、現在は宅地化が進んでいますが水利もあり実りの大きい土地だったと思います。
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●村岡御霊神社

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この神社の周辺に平良文と一族の住まいがあったと伝えられています。村岡御霊神社の南側は「宮前」の名が残っていて、宮前には一族で住まいしていたと伝えられています。

現在の柏尾川に掛かる橋が「古館橋」。この名前、想像力をかき立てます。

●参道 村の鎮守という印象。
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●階段の上が本堂です    Cimg7466_2

●平良文が勧進、御祭神は平氏のご先祖。没後権五郎も合祀されます。鎌倉氏にとって権五郎は英雄だったのでしょう。後裔は景政の「景」の字を代々使っています。有名なのは梶原景時です。今回鎌倉を調べるまで“鎌倉権五郎景政”の名すら知りませんでした。ぬかってました。

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●鎌倉権五郎の後三年の役に関わる伝承碑
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●旗立山の由来

同様な伝承が源氏山にもありますね。出陣の習慣だったのでしょう。源氏の白旗が掲げられると、伝播されていき各地から息せき切って武士たちが集まってきたのでしょう。
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村岡は五平氏が展開した拠点の中央に位置しています。一族の展開ぶりが感じられて面白い。また鎌倉街道が旗立山の東側を通っていました。石碑がありましたが説明版もなくどう理解したらよいかわかりません。
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鎌倉時代、村岡は街道の出入口で化粧坂や大仏切通に通じていました。新田義貞もここを通ったのですね。

●兜松
左のネットフェンスは神戸製鋼所の敷地ですが権五郎の伝承がありました。中には入れませんがネット越しです。
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●古館橋 この橋を渡ると「梶原」に通じます。
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●旗立山の遠景 柏尾川より
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●村岡城址
村岡御霊神社から北に1km弱に村岡城址公園があります。城は岬のような場所にあります。平良文がこの城跡から少し北の渡内にあったといわれています。遺構はほとんどありません。また村岡氏の実態も判然としません。
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●東郷平八郎元帥額書よる石碑
東郷家は村岡氏の後裔でありその縁だそうです。
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●城址から村岡御霊神社方面を眺める
向かって右の小山が、旗立山のはず。
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平良文は通称村岡五郎。村岡の名は次男がついだようで、三浦氏など大族が出ましたがあまり記録に残っていません。村岡本家という存在は早い時期になくなったのでしょう。村岡城は室町・戦国時代にも存続していました。最後は豊臣秀吉の北条攻めの後廃城となります。

  
【村岡御霊神社】
所在地  藤沢市宮前560

【村岡城址公園】
所在地  藤沢市村岡東3-28

                                                    きむらよしのぶ

 

ミーハーですが金環日食

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                                                      きむらよしのぶ

古都鎌倉 no.5-2 鎌倉党武士団 大庭氏と大庭城址

Map_2                                                      鎌倉党 五平氏の拠点MAP

■大庭御厨の成立と発展

鎌倉権五郎は大庭御厨という荘園を開拓します。荘園とは農業開拓地であり、権五郎は開拓した土地を伊勢神宮に寄進し保護をうけることで成立しました。御厨の「御」は伊勢神宮ということです。

権五郎は源家の郎党ですから源義家に寄進すべきですが、義家への寄進が禁止されていた時期だったためのようです。

義家は英雄的武略の反面、官僚としては不遇な後半生を送っています。平安時代後期の荘園はこうした都や宮廷に近い勢力に寄進して公認するケースが増えてきます。現代の子会社化や業務提携のようなものです。
現代社会とはちがって土地登記の考え方が曖昧で、周辺武士団とは常に緊張関係にあったはずです。

大庭氏は鎌倉権五郎の子孫がおこしました。本拠を相続したわけです後継者の中でも実力があったのだしょう。成立は12世紀前半です。
    
■鎌倉幕府成立と衰退

12世紀半ば源家は義朝が率いて関東で頼信以来の基盤拡大に腐心していました。義朝は大庭御厨への浸蝕行動を開始します。数度にわたる戦いで大庭御厨は朝廷の裁定で一応勝利を収めますが損害が大きく衰退してようです。
また戦闘を通じて源氏の傘下に入り、その後保元の乱を戦います。鎌倉幕府の成立時には一族がわかれて戦います。幕府内で重きを成しますが北条氏との勢力争いに破れ和田合戦に連座して衰退していきます。
     
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●大庭城址

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大庭城周辺は宅地化しているものの、高い建物がなく山野は当時の趣を伝えています。鎌倉党が本拠をおいた往時を想像しながらの散歩がよい。城址の南側には農地が広がっています。標高42.8mの大規模な平山城です。
東に引地川、西に小糸川に挟まれた要害の地といえます。成立年代は不明で、鎌倉権五郎が開拓した頃の居城か否かは確定していません。室町時代後半に築城の名手太田道灌が本格的な中世城郭としたようです。その後、後北条氏の居城となり最後は豊臣秀吉の北条攻めで廃城となりました。

城は北側が宅地化され城址公園として南部が名残るが相当な規模です。    

●公園内の石碑
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●公園MAP  芝生の広場がいっぱいです。

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●残る遺構はほとんどが戦国時代のもの。

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●四つの郭に分かれています。建物址が保存されています。
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●建物の柱址
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●堀址
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●土塁址
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●縄文時代からの遺跡が発見されています。

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●引地川からの遠景
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現在も農地が広がり、水利もよく大荘園であったことがわかります。五平氏の拠点を訪問してみましたが鎌倉郷でもこれだけの規模の開拓可能地はなかったように思います。

◆大庭城址

所在地  神奈川県藤沢市大庭6323
アクセス  JR辻堂駅、小田急湘南台駅よりバス。本数はかなりあります。

bjリーグ 2011-2012 プレイオフファイナルズ

    ウエスタンカンファレンスチャンビオン 琉球ゴールデンキングス
                  vs
    イースタンカンファレンスチャンピオン 浜松・東三河フェニックス

    会場はおなじみの有明コロシアムです。昨年優勝の浜松がやや実力は上かなぁと思いながら健太郎と会場へ。

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    ちなみに応援するのは琉球ゴールデンキングス。健太郎は開幕戦を見に沖縄まで行くほどのファン。私はそこ迄
    ではない。第一Qスタート。お客さんもよく入っています。
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    第一Q終了 浜松が4点リード。ゴール下のディフェンスか厳しいゲームになっています。
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    第二Q 終了 琉球が逆転に成功。点差は3ポイントの差かなぁ。内容は接戦です。
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    第三Q 終了 やっぱりディフエンスのいいゲームはしまります。 
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    そしてゲーム終了。琉球が勝利。4Qは琉球の並里がトリッキーなプレイで見せ場を作りました。
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    最後は点差がつきましたが、いいゲームでした。こんなゲームだとファンが増えると思います。
    淡白なプレイがまだまだ多い。見ててしんどくなるぐらいいゲームでした。
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    三社祭から歴史散歩RUNして有明でゲーム見て、今日は疲れました。会場で少々食べ過ぎたし。
                                                   きむらよしのぶ
   

富岡八幡宮 横綱力士碑と大関力士碑

    通りすがりで写真だけ。またゆっくり。
    
●横綱力士碑

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●大関力士碑

Cimg7406_2    今日は千秋楽です。旭天鵬が最年長優勝を飾ったようです。富岡八幡宮は5年ぶりぐらい。
                                                     きむらよしのぶ

深川江戸資料館

    三社祭から有明までのランニング途中で深川江戸資料館に行きました。念願の初訪問です。
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    撮影OKの資料館が多くなりましたね。歴史といより民俗学の分野です。観光気分で立ち寄りがいいですね。
Cimg7367_2    天保年間の深川の町を再現しています。規模は大きくはありませんが上手に町並みを再現しています。
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二階から入ると足元に町が広がっていますCimg7371_2
再現された町並みを散歩する気分ですCimg7377_2
河岸。深川といえば川です。当時はベニスのような場所でしたCimg7382_2
今日は時間がなく10分程度で出てしまいました。ゆっりお話を伺ったら30分でしょう
Cimg7386_2    今日のRUNのゴールは有明なので急ぎます。
                                                   きむらよしのぶ

古都鎌倉 no.5 鎌倉党武士団

鎌倉の名が初めて文献に登場するのは古事記です。ヤマトタケルノミトコの子孫が相模に土着したようで鎌倉別の祖という表現で登場します。伝承に近いと思いますが古事記がかかれた8世紀前半には鎌倉が地域名と認知されていたようです。

古事記が献上された時期に中臣鎌足の子孫で染屋太郎時忠なる人物が東八カ国総追捕使として鎌倉に居住しています。

時代は下り将門が活躍した10世紀に桓武天皇の五代で坂東平氏の祖といわれる平良文が鎌倉の村岡あたりに拠点をおいたとの文献があります。

この後の鎌倉の勢力変遷がわかりにくい。私だけかもしれないが。源頼義は相模守となり鎌倉に居を定めます。頼義の子供は義家で彼も鎌倉で生まれたようです。源氏が鎌倉に基盤ができた時期だと思います。

義家の代に登場するのが鎌倉権五郎景正です。八幡太郎源義家のもと、後三年の役で功名をし鎌倉郷に基盤をつくります。彼は平氏なのです。現代から見れば源氏と平氏は敵対関係に見えますが、婚姻関係も多く血族の保守性は感じません。義家は都が基盤のはずですから、鎌倉は股肱のものに任せたのではないかと思います。それが鎌倉権五郎景正と推測しています。彼の子孫が鎌倉の各地で勢力を拡大していきます。

いろんな見方があるようでずが大庭氏、梶原氏、村岡氏、長尾氏、鎌倉氏が代表的な五平氏と呼ばれています。
こうした鎌倉権五郎景正の後裔たちが鎌倉党といわれています。この後は源義朝が登場し平氏の枠組みを壊し、
頼朝の時代には政権が鎌倉にやってきました。五平氏の拠点を訪ねていきます。

●鎌倉五平氏 拠点MAP
Map
                                                                   きむらよしのぶ

三社祭に行ってきました

2年ぶりの三社祭です。この週末は健太郎が来ているので二人で行ってきました。

●雷門前に集まる神輿たち
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●「三社」の半被。どこのなんやろう。
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●いい天気で暑い一日でした。Cimg7271_2
●浅草公会堂前のお囃子でしたCimg7276_2
●女性ばかりのみこしでしたCimg7301_2
●スカイツリーとみこしCimg7308_2
●三社祭は子供の衣装姿がかわいらしい。この子めっちゃかわいかった。

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お昼は「喜多方ラーメンバーガー」でした写真とるのを忘れました。

                                                    きむらよしのぶ 

古都鎌倉 no.4-3 亀ヶ谷坂切通・巨福呂坂切通

七口のうち比較的市街地に近い両切通は国道、JRが通り当時を想像することも難しくなっています。鎌倉時代後期には鎌倉街道の上ツ道と中ツ道がこの切通を通っていたようです。

切通の大船側は山ノ内地区で北条得宗家の本拠でした。現在は北鎌倉地区とも呼ばれ建長寺や円覚寺など北条氏と関わりの深い寺院が残っています。従って鎌倉時代には何度も切通の整備が行われています。平安以前もルートはあったはずですが明確な痕跡はありません。七口すべてに言えることですが、今に残るルートが鎌倉時代のものか否かははっきりしません。現代もそうですが道は交通事情で変わります。

●亀ヶ谷坂切通・巨福呂坂切通map 
Photo

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■亀ヶ谷坂切通 舗装されて生活道路になっています。

●北鎌倉駅より県道21号を10分弱あるくと長寿寺が現れ、横の道を登っていきます。

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“史跡切通”というより町並みが美しい。自然の石を使った家囲のようでした。道は舗装されています。

●5分程度で峠の切通があらわれます。

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●解説版
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この切通は扇が谷につながっています。すぐの場所には源義家や義朝の居宅跡があり、浜方面に下ると郡衙がありました。たぶん古代から重要なルートだったことでしょう。  

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■巨福呂坂切通  七口の内唯一廃道になっている切通です。

●鶴岡八幡宮の車お払い所の通り向かいのレストランの横の道を上っていきます。案内はありません。

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●普通の生活道路です。
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●少し行くと(見えていますが)道が二つに。ここに史跡標柱がありました。見落としそうてすが。
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●右側の道を上ると青梅聖天社があらわれますが切通のと関係はなさそうです。その先で突き当たります。
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この先は私道とのことです。他の切通との比較だともっと高い場所を通っていたのではと思いました。残念ながら巨福呂坂切通はここまでです。

切通は地形を理解しながら足を運ぶと疑問がたくさん出てきます。残りは西鎌倉の切通3つです。

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古都鎌倉 no.4-2 名越切通

名越切通は鎌倉から逗子市、横須賀市に続くルートの入口です。律令時代の東海道は鎌倉から三浦半島に出て突先の走水から東京湾を渡り内房(富津岬)に繋がっていました。
現在の横浜市~東京にあたる武蔵国は内陸部の東山道に属していたからです。都から発した東山道は近江を過ぎると内陸を通り群馬県で南下し東京都府中市
に至ります。
武蔵国府は府中市にあったからです。府中市からはもう一度北上し栃木県に向かっていました。不効率なルートです。9世紀に修正され相模国から武蔵国につながります。前置きが長くなりました。つまり鎌倉に幕府ができる以前からこの切通はあったと考えられます。


武士が勃興した時代、三浦半島を支配したのは平氏の流れをくむ三浦氏です。三浦氏の歴史は古く、鎌倉郡衙に出仕した土着の役人であったことがわかっています。前九年の役の功績が評価され三浦を領有することになります。
三浦氏にも興味がありますがこのあたりにしておきます。


さて名越切通です。朝比奈切通と同様に昔の姿を今日に伝えているようです。
 
●名越切通 map (赤いルートです)

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今回は鎌倉から逗子に抜けました。mapを見ればわかりますが、JR横須賀線と国道が平行して走っています。
    
●市街地からJR横須賀線を超えてすぐを左折した集落です。
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●集落のはずれで踏み切りを渡ります。
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●ここで案内が出てきました
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●またすぐ分かれ道です。右の坂を上がります。
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●急な坂道を過ぎると人工的な取り付け道路に。しんぱ~い
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●この先です。大丈夫かなぁ~
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●もっともっと心配になってきました。
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●なんとなく切通のにおいがしてきました。
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●このあたりから足場が整ってきました。
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●ほぼ峠。道の真ん中の苔むした石。意味はわかりません。
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●峠の案内板  この先のまんだら堂やぐら群は封鎖中でした。
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●解説版
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●亀が岡団地と小坪地区の分岐 すぐ第一切通です
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●第一切通  峠から少し降りた場所です。
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●第一切通からすぐの標識
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●逗子側の入り口です。
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今回のルートは30分程度でした。足を運んで思うのですが、古代の旧東海道が岩場を加工した切通であるわけがなく、鎌倉以降に設置されたルートだと感じました。 また三浦氏の攻勢を防衛する為の切通であるというのも理解しがたい。三浦氏の勢力
は三浦半島だけでなく、相模国全体に及んでいたし鎌倉にも屋敷があるわけで、この切通を強化する意味が感じられませんでした。もう少し調べてみないといけません。

                                                   きむらよしのぶ     

古都鎌倉 no.4-1 朝比奈(朝夷奈)切通

1241年源家の治世から北条執権体制になり三代泰時の時代にできた切通です。泰時はなかなかの名君と伝えられていて、切通の工事に際しては自ら石を運び現場を鼓舞したようです。

上総広常の屋敷が切通の近くにありました。鎌倉創業期の功臣です。彼は千葉を地盤にしていました。金沢に港がありましたから、彼がこの地に屋敷を置いたのはルート確保の為だったと想像すると、なんらかの道が以前からあったと考えられます。
拡張したのが1241年と理解すべきなのでしょう。

●朝比奈(朝夷奈)切通 全体map(赤のルート)

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今回通ったルートを拡大しています。適度なハイキングコースです。
Map
●六浦側の入り口(環状4号:23号線沿いの案内)

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私は六浦駅から歩いてきました。この場所まで30分ほどです。バスもあります。

●入った場所にある案内板
鎌倉は、案内板が充実しています。ちょっとやりすぎぐらい年代ごとのものがあります。
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横浜横須賀道路の下を通ります。どきどきさせます。
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入り口から5分程度で象徴的な岩場の切通があらわれます。高い崖の威圧感はなかなかのものです。
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●「やぐら」といわれる岩肌を削った穴。一人歩きだとやや気持ち悪い。ハイカーが多いから救われます。
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●峠の一番上のやぐらです。落石注意がもっぱら。
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●朝比奈峠  昼なお暗しです。峠にはなんらかの管理施設があったのでしょうか?
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●いつの時代のものなのでしょうか?
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●下りに入ります。道は岩場です。水が流れていて大変です。ひっくりかえりそうです。今週雨はなかったので、いつもこんな風なんでしょう。
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●舗装道路に入る境目に説明の石碑があります
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●同じ場所にある解説版 
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●梶原景時が上総広常を討ち取ったあと太刀を洗った場所らしい。伝承ではあるが意外に事実かも。いずれにしても景時、広常ともに切通の入り口に屋敷があったのです。
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この先少し歩くと人家もみえ鎌倉の街中に入ります。山の中をあるくのは3km、小一時間ほどでした。以外に道幅があり、むしろこのぐらいの道幅じゃないと物資は運べないだろうと思ったりしました。
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古都鎌倉 no.4 鎌倉七口

 三方を山に囲まれた鎌倉。鎌倉を囲む山々は低山であるものの岩山で、簡単に道を作ることが難しいものでした。
天下の政権がこの街にでき物流や防御の為に新しい道路が必要になりました。それが「切通」であり代表的な七つの道を鎌倉七口というようになりました。恐らく古代の郡衙があった頃から杣道のような山越のルートは存在したのでしょうが、馬や馬車を通すような道ではなかったはずです。国家にとって道路整備はいつの時代も大事ですね。
    
「いざ鎌倉」という幕府の御家人の信頼関係を維持する為にも道路整備は不可欠なものだったはずです。

●鎌倉七口

鎌倉七口は江戸時代の書物に登場する名数に基づくもので、重要性や歴史をあらわしたものではありません。鎌倉時代に呼ばれていたものではありませんので念のために。
    

Map_2

七つの切通で歴史的趣があるのものは4つです。

朝比奈切通
名越切通
大仏切通
化粧坂切通

舗装されて当時の趣がないものは3つです。

極楽寺切通 ・・・ 一般道になっています。全く残っていません。
亀ヶ谷坂切通 ・・・ 一般道になっています。
巨福呂切通 ・・・ もう道が通じていません。

どの道も現在では廃道やハイキングコースになっています。“首都”への入り口だった道路がハイキングコースに
なっているという事実が面白いね。今日すべて歩きました。順次紹介していきます。  
                               
                                                 きむらよしのぶ

鎌倉・逗子・七里ガ浜 トレイルラン してきました

    歴史散歩メインでハイキングコースをランしてきました。天気は抜群で、桜の時期よりは人出も少なく楽しめました。
    コースはジョグノートに。(http://www.jognote.com/user/131076/classic)

    ●七里ガ浜

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    ●江ノ島(稲村ガ崎より)
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    ●七里ガ浜(稲村ガ崎より)
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    ●極楽寺駅にあったサイン入りポスター
     いいドラマでしたね。前クールでは抜群だった。
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    ●江ノ電 乗ってもないのにプレートが撮影できるのは江ノ電らしいとこ。

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    次回は6月になりそう。見所が多くて今年いっぱいかかりそうです、鎌倉。
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混み合った電車のベビーカーのマナー

最近気になることの一つが電車のベビーカーです。混み合った場面では

折り畳むのが公共マナーだったと思うのだがどうやろう?もっとも理屈

は別としても人込みの中では遠慮があるのがしかるべきやないかな?

首都圏の人出はどこへ行っても関西の比やないし私のような事をいいだし

たら子連れでは出掛けられなくなりますが配慮のない親が多いように感じ

てなりません。スペースとって恐れ入りますという心遣いが感じないし、

むしろ小さな子供を抱えた弱者なんだから周りが配慮すべきという主張す

ら感じる時があります。私の考えが古いのかな?自分の子供達の頃は人が

多い場所やから抱いていかないとあかんとはるみちゃんが判断していたよ

うに思う。今日も田園都市線と東急東横線で移動していますが、類似する

ベビーカーをみました。気持ち悪いわ〜
これって私だけなん?!

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