大津籠城戦の八日間 -古都大津no.4ー
大津城籠城戦は関が原の戦いの前哨戦の一つです。大津の町はこの籠城戦で灰燼に帰し城下町から宿場町・商業
の町に変化して現在に至っています。今日の大津はこの時から始まったのです。籠城戦の八日間は城側が予想以上
の防衛に成功した戦いでした。残念ながら遺跡や当時の資料が残っておらず想像するしかないのですが、町歩きを
しながら思いを深めていきます。まずは関が原へ向かう出来事を頭に入れておきます。
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●予備知識 関が原の戦い前夜
1598年8月 太閤秀吉が亡くなります。
1600年6月 上杉討伐の為に徳川家康並び諸大名が出陣
7月 石田三成を中心に西軍が結成され毛利輝元が総大将に就任
7月19日 伏見城の戦い(08月01日陥落)
7月24日 家康 下野小山に到着
7月25日 家康 従軍した諸大名を招集 いわゆる「小山評定」
(以前の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-35bf.html)
諸大名は続々と陣を払い、正則の居城である尾張清洲城を目指し出陣。
8月10日 三成 大垣城に着陣
8月23日 岐阜城陥落 織田秀信は高野山へ追放され病没。織田氏本宗家は断絶
8月24日 秀忠 江戸を出陣
9月01日 家康 約三万三千の兵とともに江戸を出陣(9/14赤坂着陣)
そして徳川家康は関が原に着陣後なんと1日で(9/15)勝利してしまいます。
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●予備知識 大津城籠城戦
1600年8月10日 大津城主京極高次は西軍に参加するため北陸に出発
9月2日 高次軍は近江国東野より急遽反転し湖上を大津城に戻る(翌朝大津城へ帰還)
9月4日 籠城の用意を始める。
兵糧米等、軍船も城内に入れ京町口・尾花川口を堀割りにし関寺口に番所をおきます
9月6日 町全域と三の丸の侍屋敷の自焼を命ずる
9月7日 毛利元康を大将とした西軍が攻撃開始
寄せ手は猛将立花宗茂や毛利秀包、筑紫広門等一万五千の兵
籠城軍は三千
ーーーー戦闘は11日迄昼夜わかたず行われるが城は落ちませんーーーー
9月11日 逆に高次軍は夜襲を敢行
高次軍は赤尾伊豆守・山田大炊が精兵500を率いて攻めかかり存分に暴れ回る
9月12日 寄せ手の諸将の軍議で堀を埋めること、長等山より大砲攻撃を決定する
9月13日 大砲攻撃開始 三井寺の背後にある長等山から城内に砲撃
京の町衆も手弁当で高観音堂あたりに見物にきて大津城に大砲があたると拍手をした。
立花宗茂軍が一番乗りを果たし三ノ丸、二ノ丸が落ちる
9月14日 夜 和議締結開城
9月15日 城明け渡し。早朝老人 女 子供約2、3百人を連れて高野山へ
こうして大津攻城軍は勝利しました。しかし9月15日は関が原で本戦が行われ東軍が勝利。
関が原に向かった立花宗茂は草津で敗戦を知ります。
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●当時の大津城を推定する
資料が残っていませんが想像できる材料はいくつかあります。
①豪壮華麗をうたわれた坂本城からの移築
織田政権時の坂本城は明智光秀の所領です。宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』で豪壮華麗で安土城
に次ぐ名城と記しています。
そもそも安土城は坂本城を参考にしたという伝承もあります。
坂本城は天王山の戦いののち、天守に火を放ち落城します。その後数名の城主が入り城と城下町は復興します。
この期間が5年間ほどのようです。のち叡山延暦寺を抑えるという坂本城の役割が終了し廃城となります。大津築城
にさいして、城と城下町の建物や石材を大津城に移築しています。
坂本城も琵琶湖に石垣をあらわれていた水城のため多くの資材が活用されたはずです。坂本城も保存遺跡・資料とも
に少ないのですが、穴太衆の本拠地ですから、さぞ豪壮な城であったでしょう。
(以前の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-ea5e.html)
②国宝彦根城天守は大津城からの移築
国宝彦根城の天守は大津城から移築されました。現在は三層になっていますが大津にあった当時は四重五階でした。
籠城戦の最後は本丸にこもって戦っています。本丸の規模は彦根城程度の規模であったかもしれません。
③湖に突き出た本丸跡
大津城の資材は膳所城や彦根城などに転用され、町は性格を変え商業都市になりますから堀の埋め立ても進み、
城郭の縄張りを感じさせるものは残りませんでした。
江戸・明治期の地図をみると本丸跡が琵琶湖に突き出ており往時をしのばせます。参考に水城で有名な今治城
の写真を用意しました。湖上からみたらこんな感じだったのかもしれません。
④縄張り推定図
明治以降に3つの城郭図が描かれています。
その一つ 昭和4年(1929)『京都連隊区将校団郷土戦史』第二巻付図の「大津城攻防戦闘要図」
大津籠城合戦記の記載を地図に落としたもの。諸将の名が見え臨場感が沸きます。
大津町古絵図 「模式図」
その3つの資料や江戸時代の大津町古絵図を参考に、昭和55年(1980)発刊『新修大津市史』第三巻の「大津城
復元図」において大津城の姿が復元されました。
☆大津城縄張推定復元図
現在この図は市内の数箇所に掲出されています。現地の痕跡を訪ねてみましょう。
□□大津城を歩いてみる□□
○中堀 西側 現:川口公園
昭和31年まで堀が残っていました。かなりの幅があるのがわかります。
○中堀 南側 長等二丁目 東西に走る通り
推定復元図を参考にすると真ん中の通りと両側二軒ほどの幅です。
右側が二ノ丸、本丸方面。本丸に向かって下っていることがわかります。
○外堀 石垣 ほとんど唯一の遺構です 大津祭曳山展示館の並びにあります。
外堀の外側の石垣だとすると、撮影している私は堀の中か城内三之丸。
このままなら、攻城軍から打ち下ろされますので、三之丸は相当高い石垣があったのでしょう。
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■籠城戦八日間の理由
五倍の敵を相手に八日間の籠城。兵力差からすると京極高次は大健闘をしました。当時の軍は大砲を常備して
いませんでした。当初から西軍にあればもっと早く落ちたかもしれません。同じ時期におきた丹後田辺城の戦いにも
共通していますが、西軍の戦闘意欲にも問題はあったかもしれません。総大将に毛利輝元を立てていますが、
求心力があったかどうかは疑問です。大津攻城軍も主将は毛利元康でした。毛利元就の七男で歴戦の将です。
しかし、攻城軍には豊臣の旗本衆七手組や七本槍の片桐且元も参加しています。それぞれの思惑が働いたの
ではないかと思います。
別の視点で大津城の地形を調べてみました。本丸が坂の下にある立地が気になったので高低差を調べてみました。
現在の地形からの算出ですから当時と同じではありません。
○城の高低差
本丸と外堀の外側との高低差は10mほどあります。この城は外から「見下ろせる」城です。 寄せ手の戦闘意欲に
問題があったとしても日数がかかるようには思えません。実際、三之丸が落ちると即日二ノ丸も落ちています。
三ノ丸はよほど堅固にできていたのでしょう。相当な高さの石垣が用意されていのかもしれません。
最後に外堀です。外堀の東西、浜町口・尾花川口は琵琶湖に面した低地にある為、堀に琵琶湖の水を入れ
ることは可能だったでしょう。しかし、南側まで琵琶湖の水を取り込むには相当な掘割をしなければならず、空堀
だったのではないかと思います。堀に満々と水を満たすほどの川もありません。現在の琵琶湖疏水が参考になる
かもしれません。。。。。。
長い記事になってしまった!!
きむらよしのぶ
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