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2012年2月

神戸市 平氏の遺跡 大輪田の泊

前回の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-b851.html
    (神戸市平氏の遺跡)からつづく

有馬街道をまっすぐ下って山陽鉄道・高速を越えると東川崎町に入ります。川の先(崎)の川は湊川だったはずです。
石井川と天王川が合流して湊川になるのですが、過去の湊川は大変な暴れ川で流路を何度も変え田畑を荒らしました。この地域は山が迫り、流れの速い川が暴れる扇状地でした。清盛はこのあたりもコントロールするすべを考えたのでしょうか。東川崎は岬のように道路が丸く通っています。昔はこの先は海たったのでしょう。

Photo

 東川崎から西出・東出町を抜けると島上町に至ります。この島が経ヶ島だといわれています。経ヶ島の場所の特定することは困難ですが、歴史館の掲示パネルがわかりやすいので載せておきます。当時の海岸線、湊川の流路もわかりやすく説明しています。

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現在の大輪田泊遺跡には防波堤や突堤の基礎部分の石材が置かれています。かなり大きな石ですが、これが海中に3~4段積み重ねて堤を構築したようです。当時の技術力を想像させてくれます。技術的な解説を聞きたいものです。

○大輪田泊の石椋   発見場所とは少し離れた場所とのことです

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○解説版

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最後に福原京ですが、わずか半年の都ですので実態や遺跡はほとんど残っていません。歴史館のパネルだけUPしておきます。

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今回はここまでです。久しぶりの大学の同級生と一日中歴史話をするという楽しい時間をすごせました。
もうしゃべり出したらきりがありませんね。またやりたいなぁ。面白かった。
                                                 きむらよしのぶ

神戸市 平氏の遺跡 祇園遺跡・雪見御所

清盛が築いた大輪田の泊。

国際貿易港神戸はここからスタートしています。港として弱点の解消の為に沖に経ヶ島という人口島を建設します。
その後、島は陸地とつながってしまい痕跡の確認もできません。また実態を明らかにできる資料も残っていません。
清盛が修築強化した大輪田の泊は時代が下がると“兵庫の津”と名をかえますが、国際貿易港として発展し続けます。

江戸時代の末期に日米修好条約で横浜・新潟・長崎と共に開港をし、兵庫の津から現在の神戸港へと範囲を広げました。世界を相手の港湾に姿を変えて生きます。

大学時代の同級生と平清盛の足跡を訪ねました。新しい資料・見解はないかと少しだけ期待して。


まずは神戸市立博物館で情報収集してからの出発です。ちなみに湊川の戦いと一の谷の戦いの展示がほとんどなかったのですがどうしたんでしょうね。私が時代遅れなのだろうか?

■平野地区

有馬街道を登り、山に入る手前の丘陵地帯が平野地区と呼ばれています。(町名としての平野はその一部)この地は平氏の拠点で清盛が晩年の10年ほどを過ごした場所です。兵庫の町・港を一望に収められる場所でした。景色を眺めながら開発構想を練っていたのでしょうか。

※以下の画像はクリックすると拡大します。

○平野地区の史跡map (平野交差点南東角にあります)

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    “国見”のできる祇園神社にのぼります。

○祇園神社からのビュー

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真ん中の道が有馬街道で突き当たりが大輪田の泊。街道の右側におそらく福原宮が広がっていたはず。

○祇園神社と清盛

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この「平野」という地名。平氏の野(フィールド、土地)という意味らしい。今回は初めて聞きました。大河ドラマという風が
吹いていますが、地元もがんばっています。掲示・掲出物も充実しています。

○案内版 解説版

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さて平野地区では屋敷跡に足を運びます。まずは「雪見御所」です。

○雪見御所跡(湊山小学校校舎北側にあります)

Cimg4234_2○解説版

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平家物語にも清盛の邸宅として登場します。京都の六波羅、西八条殿を訪問しましたが規模としては近似した広さです。天王川、石井川を堀として山側(北側)に建物、そして石碑のある湊山小学校より南に庭園が展開していたようです。この二つの川の流れが変わっていないのであれば平野地区では重要な立地だと思いました。
もう一つは祇園遺跡という昨年発掘され注目された遺跡です。現在も発掘は継続しているようすですが、囲いが厳重で隙間から撮影できたのはこれだけです。

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なんともしようがないので、歴史館のパネルを上げておきます。

○祇園遺跡 第14次調査パネル (歴史館内)

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有馬街道の拡張工事でも生活の跡は確認されています。14次調査では珍しい白磁の水注が発見されています。
また3つの建物も発見されています。建物は平氏の時代のものである為、タイミングもよく注目を集めたのでしょう。
住宅密集地区なので発掘はなかなか進まないのでしょうが、平氏一門の全てが屋敷を持っていたとすれば、相当な範囲だったはずですから今後に期待したいですね。
今日は時間もないので、有馬街道を下って「大輪田の泊」に向かいます。
                                                     つづく
                                                     きむらよしのぶ

滋賀県守山市の史跡 下之郷遺跡 弥生時代の巨大集落跡

滋賀県守山市は江戸時代、中仙道の宿場町として大変賑わいました。いずれ宿場町も調べてみますが今回は時代をずっとさかのぼって弥生時代の守山に足を運びました。なぜなら、弥生時代を代表する3つの遺跡があるからです。

       服部遺跡
       伊勢遺跡
       そして
       下之郷遺跡

服部遺跡は残念ながら野洲川に沈んでいますが、伊勢遺跡・下之郷遺跡は保存されています。bjリーグの試合が近かったので下之郷遺跡に大急ぎで立ち寄りました。この施設は見ごたえありました。規模も大きくざっと回るだけでも40分程度かかりました。

  ※以下の画像はすべてクリックすると拡大します。

○場所

Map

○保存施設

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○史跡公園平面図

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●下之郷遺跡

今から約2200年の「村」のあとです。それも巨大な集落で全国で三番目の規模(現時点)です。
(吉野ヶ里遺跡、唐古鍵遺跡に続く大きさ)

Cimg4081_2 既に60回を超える発掘調査が行われています。


下之郷遺跡は野洲川が形成した扇状地の突先にあり下流域の水田をコントロールする立地になっています。
掲示パネルがわかりやすい。

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パンフレットに村の景観を復元したイラストがありました。樹木の生い茂った豊かな村だったのでしょう。

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特徴を列記します。

①多重環濠集落であること   少なくとも3重の土塁がありました。

○保存施設内の環濠跡 手前の席でビデオ説明がありました。内容は濃い。

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○公園内の環濠跡

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②戦闘のあった可能性     多数の武器類 楯の発掘は珍しいですね。

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③幅広い生活のあと       多種多様な土器・木製品

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④竪穴住居が存在しない    渡来系の影響かな

    
これ以外にも、環濠内の堀でフナを食用に放流していたこと、米は熱帯ジャポニカが発見がされたりと、かなり幅広い弥生文化が楽しめます。
時間があれば守山市の埋蔵文化財センターに立ち寄ればベストでしょう。

■ 下之郷遺跡

所在地  滋賀県守山市下之郷町
アクセス JR守山駅から近江鉄道バスで「下之郷東」下車すぐ

京都市の寺院 雪の岩屋山志明院

病の治癒にご利益があるということではるみちゃんにつれてもらいました。

京都市内とはいえ雲ヶ畑ですから大変な山の中です。私は始めての参詣です。

参詣にはバスが走っていますが本数も少ないので車が望ましいでしょう。

途中、西賀茂を越えたあたりから北山杉(だと思うけど)の伐採址が見事な景色を作っていました。

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さて志明院。

創建に役行者、再興に空海がかかわっていて修行道の本場といわれています。

たぶんそんなこともあって山門付近以外は撮影禁止です。この立て札いけるでしょ。

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歌舞伎十八番にも使われていたり、司馬遼太郎が好んで泊まったり。

アニメ「もののけ姫」のタイトルもこの森から生まれたそうです。

 ○駐車場からのアプローチ

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○受付 鄙びてます 入山料300円

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○宿坊1

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○宿坊2

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○山門

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山門の先は岩場が続きます。修行の場であったことがうかがい知れます。

山門からはゆっくり巡っても20分程度ですが、季節もあってヒヤッとした気分にさせてくれます。

ちなみに寺の中をながれる清水は鴨川の源流です。京都観光のスタートをこの寺からきるのもよいかもしれません。

■岩屋山志明院

所在地 京都市北区雲ヶ畑

※冬場は電話で雪の具合を伺ってからの訪問が望ましい。

滋賀県大津市の遺跡 南滋賀遺跡 現地説明会に参加しました

発掘調査の現場に入るのはたぶん30年ぶりです。もうそれだけで大喜びです。最後は飛鳥の嶋宮遺跡だったと思う。

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残念ながら今日25日は雨でした。雨にもかかわらず100名近い方々が参加されました。

■南滋賀遺跡

南滋賀遺跡は古墳時代の遺跡群です。近畿で最初に方形周溝墓が見つかっていて後期には大壁建物という特殊な住宅遺構も発見されています。

○周辺map(赤い場所が今回の現場です)

Photo

大壁建物は渡来人の住居です。坂本から大津宮跡のある錦織は渡来人の遺構・古墳が多数発見されていて、当時は外国文化が華やかな地域であったようです。

昨年2011年の11月から調査が行われ今月末で埋め戻されます。

■発掘現場

○北東角からの撮影

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○南から北向きの撮影(溝が北に伸びていますが用途は特定できていません)

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○地層 真ん中に白いゾーンがある。近くの際川の氾濫土石のようです。

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○唯一の住居の柱 地層に沿って4つの穴がそれ。この右側に住居は広がっていたはず。

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■今回の発掘成果

今回は居住地遺構は発見されていませんが古墳時代後期の遺物がたくさん出ています。

特に祭祀行為に関する遺物が多数発見されており、住居の隅の柱が発見されていることから住居群ではなく、

祭祀の為の広場のような場所であったようです。

陽物形木製品(男性器をかたちどった祭祀用具)や下駄など珍しい出土物も眼にできました。

○配布資料1

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○配布資料2

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 今回のトレンチも小さくて不満が残りましたが、これからも現場に足を運ぼうと思いました。

今度は関東ですけどね。

京都市の史跡 史跡御土居2(上京区馬飼町・平野鳥居前町)

794年平安京遷都によって京都の都市機能がスタートします。平安京の規模は広大でした。

今の京都市の鴨川と桂川にはさまれた地域で、当時の人口からすればかなり広大な範囲であっという間に“右京”が衰退しました。

現在の町の中心ストリートは烏丸通りであり、繁華街の代名詞は河原町ですが共に都の左側に偏っています。

その“左京”に偏った形を正規のものにしたのは豊臣秀吉でした。

以前にも紹介しましたが他の地域の保存遺跡に足を運びました。

(以前の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-3ac1.html)

お土居の保存遺跡は9箇所で、今回の2箇所を訪れました。

○訪問したお土居 (地図の赤い囲みの場所)

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■北野天満宮内 お土居

北野天満宮の参道に入り口があります。城郭の土塁と想定してみてみるとかなりの規模で驚きです。

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新しい案内版です

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お土居の上から外側を眺めています。高低差がわかりにくいでしょうね。

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土居から堀に降ります。

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土塁上です。幅の広さがわかります。

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堀におりて土塁を見上げています。石組みは後世のものです。

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■平野鳥居前 お土居

北野天満宮の北門を出て左に出て、紙屋川の手前の道を上がるとお土居があります。

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案内板

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石柱

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天満宮のお土居をみて当時の規模を感じました。

お土居の狙いは色々と語られていますが、豊臣秀吉らしいスケールを感じますから防衛、水害対策程度では彼らしい都市設計のメッセージだったんだろうと思いました。

残りもまわってみます。

大津町並み散歩 屋根の上の鍾馗さん

    元々は中国の民間伝承からおこった道教の神さんです。

    日本では魔除けになっています。関東にはないのかな?見たことはないのですが。

    京都が主体ですが滋賀県は特徴的な鍾馗さんが多いです。

    大津町は京都の生活文化を参考にしています。例えば「うなぎのねどこ」と

    いわれる間口の狭い細長い住居様式も京都と同様に大津町の特徴です。

    今回、大津百町の鍾馗さんを探しましたがだいぶ減りました。古い住居が改築と共に

    鍾馗さんをおろしているのでしょう。

    小屋根の上にちょこんと乗った鍾馗さんです。 (赤い○のところ)

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    大きな眼でにらんでいますが、全体にかわいい仕上げになっています。

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        散歩RUNでいくつかの鍾馗さんを撮影してきました。

      ○小さな家に入っている鍾馗さん

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     ○空を見ている鍾馗さんCimg3847_2

     ○仁王立ちなんでしょうか?

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     ○年代ものでしょうか?

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     ○剣をかまえた鍾馗さん ややひょうきんな印象です

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     ○威厳たっぷりの鍾馗さん

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     ○鞘をもっている?

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     ○新しいですね。足元がはっきりしていて重厚です。

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周囲の鍾馗さんや鬼瓦との位置など置き方にも仕切りが色々あるようです。

昔は大変やったんやろうね。今後も収集してみます。

大津町並み散歩 面白い瓦 留蓋(トメフタ)

屋根瓦に興味を持ちRUNしながら留蓋(トメブタ)という装飾瓦の写真をとっています。

本来は雨漏りを防ぐためのものですが、装飾や魔除けの意味もあるようです。

単に装飾を目的とした飾り蓋もあるようです。 ごく一部です。

    ■永願寺

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    ■宗清禅寺

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    ■乗念寺

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    ■清龍寺

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    ■西方寺

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    ■唯泉寺

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    ■傳光院

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いろんな“表情”がみえます。お寺のご門などあると思います。ゆっくり歩いてみてください。

町歩きは面白い。。。

大津籠城戦の八日間 -古都大津no.4ー

大津城籠城戦は関が原の戦いの前哨戦の一つです。大津の町はこの籠城戦で灰燼に帰し城下町から宿場町・商業の町に変化して現在に至っています。今日の大津はこの時から始まったのです。籠城戦の八日間は城側が予想以上の防衛に成功した戦いでした。残念ながら遺跡や当時の資料が残っておらず想像するしかないのですが、町歩きをしながら思いを深めていきます。まずは関が原へ向かう出来事を頭に入れておきます。

Cimg3420_2                                                                    浜大津港にある石碑 本丸跡

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●予備知識 関が原の戦い前夜

 1598年8月 太閤秀吉が亡くなります。
 1600年6月 上杉討伐の為に徳川家康並び諸大名が出陣
      7月 石田三成を中心に西軍が結成され毛利輝元が総大将に就任
         7月19日 伏見城の戦い(08月01日陥落)
         7月24日 家康 下野小山に到着
                   7月25日 家康 従軍した諸大名を招集 いわゆる「小山評定」
               (以前の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-35bf.html)

         諸大名は続々と陣を払い、正則の居城である尾張清洲城を目指し出陣。
         8月10日 三成 大垣城に着陣
         8月23日 岐阜城陥落 織田秀信は高野山へ追放され病没。織田氏本宗家は断絶
         8月24日 秀忠 江戸を出陣
         9月01日 家康 約三万三千の兵とともに江戸を出陣(9/14赤坂着陣)
            そして徳川家康は関が原に着陣後なんと1日で(9/15)勝利してしまいます。

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●予備知識 大津城籠城戦

    1600年8月10日 大津城主京極高次は西軍に参加するため北陸に出発
         9月2日 高次軍は近江国東野より急遽反転し湖上を大津城に戻る(翌朝大津城へ帰還)
         9月4日 籠城の用意を始める。
              兵糧米等、軍船も城内に入れ京町口・尾花川口を堀割りにし関寺口に番所をおきます
         9月6日 町全域と三の丸の侍屋敷の自焼を命ずる
         9月7日 毛利元康を大将とした西軍が攻撃開始
            
              寄せ手は猛将立花宗茂や毛利秀包、筑紫広門等一万五千の兵
              籠城軍は三千

     ーーーー戦闘は11日迄昼夜わかたず行われるが城は落ちませんーーーー

         9月11日 逆に高次軍は夜襲を敢行
               高次軍は赤尾伊豆守・山田大炊が精兵500を率いて攻めかかり存分に暴れ回る
         9月12日 寄せ手の諸将の軍議で堀を埋めること、長等山より大砲攻撃を決定する

              9月13日 大砲攻撃開始 三井寺の背後にある長等山から城内に砲撃
               京の町衆も手弁当で高観音堂あたりに見物にきて大津城に大砲があたると拍手をした。

Cimg3243_2                                                                         本丸跡から長等山を眺める

               立花宗茂軍が一番乗りを果たし三ノ丸、二ノ丸が落ちる
         9月14日 夜 和議締結開城
         9月15日 城明け渡し。早朝老人 女 子供約2、3百人を連れて高野山へ

こうして大津攻城軍は勝利しました。しかし9月15日は関が原で本戦が行われ東軍が勝利。
関が原に向かった立花宗茂は草津で敗戦を知ります。

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●当時の大津城を推定する

資料が残っていませんが想像できる材料はいくつかあります。

①豪壮華麗をうたわれた坂本城からの移築

織田政権時の坂本城は明智光秀の所領です。宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』で豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記しています。
そもそも安土城は坂本城を参考にしたという伝承もあります。
坂本城は天王山の戦いののち、天守に火を放ち落城します。その後数名の城主が入り城と城下町は復興します。
この期間が5年間ほどのようです。のち叡山延暦寺を抑えるという坂本城の役割が終了し廃城となります。大津築城にさいして、城と城下町の建物や石材を大津城に移築しています。
坂本城も琵琶湖に石垣をあらわれていた水城のため多くの資材が活用されたはずです。坂本城も保存遺跡・資料ともに少ないのですが、穴太衆の本拠地ですから、さぞ豪壮な城であったでしょう。
    (以前の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-ea5e.html)

Cimg3544                                                             参考:西教寺総門 坂本城遺構 

②国宝彦根城天守は大津城からの移築
    
国宝彦根城の天守は大津城から移築されました。現在は三層になっていますが大津にあった当時は四重五階でした。籠城戦の最後は本丸にこもって戦っています。本丸の規模は彦根城程度の規模であったかもしれません。

Cimg0850_2                                                             参考:彦根城天守 

③湖に突き出た本丸跡

大津城の資材は膳所城や彦根城などに転用され、町は性格を変え商業都市になりますから堀の埋め立ても進み、城郭の縄張りを感じさせるものは残りませんでした。
江戸・明治期の地図をみると本丸跡が琵琶湖に突き出ており往時をしのばせます。参考に水城で有名な今治城の写真を用意しました。湖上からみたらこんな感じだったのかもしれません。

Photo                                                                          参考:海岸平城 今治城 
④縄張り推定図

明治以降に3つの城郭図が描かれています。

Cimg3149_2                            その一つ 昭和4年(1929)『京都連隊区将校団郷土戦史』第二巻付図の「大津城攻防戦闘要図」
                      
大津籠城合戦記の記載を地図に落としたもの。諸将の名が見え臨場感が沸きます。

    Cimg2817_3                                                    大津町古絵図 「模式図」

その3つの資料や江戸時代の大津町古絵図を参考に、昭和55年(1980)発刊『新修大津市史』第三巻の「大津城復元図」において大津城の姿が復元されました。

☆大津城縄張推定復元図

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現在この図は市内の数箇所に掲出されています。現地の痕跡を訪ねてみましょう。

□□大津城を歩いてみる□□

○中堀 西側 現:川口公園

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昭和31年まで堀が残っていました。かなりの幅があるのがわかります。

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○中堀 南側 長等二丁目 東西に走る通り

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推定復元図を参考にすると真ん中の通りと両側二軒ほどの幅です。

右側が二ノ丸、本丸方面。本丸に向かって下っていることがわかります。

○外堀 石垣 ほとんど唯一の遺構です 大津祭曳山展示館の並びにあります。

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外堀の外側の石垣だとすると、撮影している私は堀の中か城内三之丸。

このままなら、攻城軍から打ち下ろされますので、三之丸は相当高い石垣があったのでしょう。

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■籠城戦八日間の理由

五倍の敵を相手に八日間の籠城。兵力差からすると京極高次は大健闘をしました。当時の軍は大砲を常備していませんでした。当初から西軍にあればもっと早く落ちたかもしれません。同じ時期におきた丹後田辺城の戦いにも共通していますが、西軍の戦闘意欲にも問題はあったかもしれません。総大将に毛利輝元を立てていますが、求心力があったかどうかは疑問です。大津攻城軍も主将は毛利元康でした。毛利元就の七男で歴戦の将です。
しかし、攻城軍には豊臣の旗本衆七手組や七本槍の片桐且元も参加しています。それぞれの思惑が働いたのではないかと思います。 

別の視点で大津城の地形を調べてみました。本丸が坂の下にある立地が気になったので高低差を調べてみました。
現在の地形からの算出ですから当時と同じではありません。 

○城の高低差

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本丸と外堀の外側との高低差は10mほどあります。この城は外から「見下ろせる」城です。 寄せ手の戦闘意欲に問題があったとしても日数がかかるようには思えません。実際、三之丸が落ちると即日二ノ丸も落ちています。
三ノ丸はよほど堅固にできていたのでしょう。相当な高さの石垣が用意されていのかもしれません。

Cimg0812_2                                                                       参考:彦根城 中堀

最後に外堀です。外堀の東西、浜町口・尾花川口は琵琶湖に面した低地にある為、堀に琵琶湖の水を入れることは可能だったでしょう。しかし、南側まで琵琶湖の水を取り込むには相当な掘割をしなければならず、空堀だったのではないかと思います。堀に満々と水を満たすほどの川もありません。現在の琵琶湖疏水が参考になるかもしれません。。。。。。

長い記事になってしまった!!

                                                 きむらよしのぶ

大山古墳 祭祀の実態 初公開 -京都新聞 夕刊

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仁徳陵を「大山古墳」で統一したのかな?陵墓指定を受けている古墳は天皇陵と呼称したほうがいいと思うのだが・・・

仁徳天皇のものかは疑わしいのだか。。。

ひょっとして世界遺産認定に向けての動きではないだろうけど、宮内庁のこの判断いいね! です。

どんどん開示したほうがよい。そして国民の理解を得たほうがよい。

生きている間に天皇陵の発掘なんておこなわれないだろうけど。

滋賀県大津市の古墳 木の岡古墳群2 『下坂本陵墓参考地』

昨年12月に歴史散歩RUNで訪れましたが立ち寄れなかった古墳を含めてすべて足を運びました。
木の岡古墳群の多くは陵墓参考地です。
(以前の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/run-69d2.html)、

●陵墓参考地とは?

陵墓参考地とは宮内庁が皇族の墳墓としたものの特定する資料に掛ける古墳です。全国に46箇所あります。

滋賀県にも存在することを知りました。木の岡古墳群はJR比叡山坂本駅から徒歩で10分程度、全ての陪塚に立ち寄っても一時間弱といったところです。
○map  町の案内図に加工しました。6箇所に白い★印をつけています。

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      天気がよい。古代人もいい気分になった土地だったのでしょうかね。

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○飛地に号 車塚古墳 円墳

比叡山坂本駅の北向きの信号を渡って、まっすぐ進みます。足洗川までくると舗装されていない川沿いの道を左折すると車塚古墳があります。

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      案内板 「飛地に号」  

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これ以上の説明はありません。陵墓参考地ですので。古墳群の中で飛地に号だけが離れています。
元の道にもどり木の岡住宅街に入ります。しばらくいくとこんな看板が出てきます。よく通っていたはずですが全く気がつきませんでした。向かって左手の道を登ります。

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    古墳群の石柱 石柱の後ろにある森は木の岡茶臼山古墳です。

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○飛地は号 木の岡茶臼山古墳 前方後円墳 全長84m

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案内板
400年代の築造です。当時のこの地は半島渡来系部族が展開していた地です。この墳墓からは特殊性は見当た らないようです。   

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もちろん墳丘に立ち入れないので、そのまま丘陵を登ります。古墳群の一番高い位置に丸山古墳があります。

○本塚 丸山古墳 帆立貝式墳 全長73m
  参道も整備されて礼拝所も設けられています。

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案内板
弘文天皇母后のお陵墓と推定されているとのこと。弘文天皇の母君は伊賀宅子娘。お名前の通り伊賀氏の出身です。この地には縁がない。伝承の根拠がかりませんでした。

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○飛地ろ号 首塚古墳、円墳、径14m
丸山古墳に並んでいる墳墓です。古墳案内板が樹木に取り込まれていて発見が難しい。写真をとりましたが私のカメラではダメでした。

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もう少しよってみます。 かろうじて案内板の輪郭がみえました

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すぐそばに2つの陪塚が並んでいます。

      ○飛地ほ号 新塚古墳、円墳

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      ○飛地い号 御前塚古墳、円墳

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この周辺にはたくさんの古墳が残っています。時代の幅も広い。陵墓参考地なので発掘ができないのが残念。
私としては飛鳥や百舌鳥以外でこれだけ陪塚が残っている古墳群を始めてみました。

琵琶湖に面した丘陵地に展開する古墳群です。この地の支配者層が葬られているのは間違いないでしょう。

◆木の岡古墳群

所在地 滋賀県大津市木の岡町

アクセス JR比叡山坂本より徒歩10分

伝 西行屋敷跡 ん?

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滋賀医大のあと、旧東海道を瀬田一里山から浜大津まで歩きました。往復19km。

走るより歩くほうがくたびれます。

近江国庁跡に近い大江3丁目に「伝、西行屋敷跡」の石柱がありました。

帰宅してから調べましたが実態がわかりません。西行は諸国を漂泊していましたから

ありえないことではない。

しかし、どこからの伝承なんやろう~

せめて伝承の根拠を知りたいのだが、どなたかご存知ないものか?

京都市の史跡 山科本願寺跡 近世城郭のはしり

中世以来の宗教の歴史にはいささか肌があわず表面理解に留まっていました。教義には未だに感心を持てませんが、文化的側面では欠かせないものと思えるようになりました。

山科本願寺は浄土真宗(一向宗)の戦国時代初期の本山です。浄土真宗は親鸞によって鎌倉時代に起こされました。親鸞が入滅後教団しての勢力は減退し、本願寺は天台宗の一末寺となっていました。この時期に第八代を継承した蓮如は天台宗と戦い、近江・加賀を転々としながら北陸に足場をつくっていきました。この頃は応仁の乱の時期です。

加賀で成功した蓮如は大坂に出ていきます。この時期から全国に布教を開始し多くの帰依をえます。
蓮如が60歳を超えて造営したのが山科本願寺です。
      
山科本願寺は伽藍だけではなく寺内町を形成し大きな人口をかかえる都市となっていました。応仁の乱後荒れ果てた洛中より大きな賑わいだったようです。山科本願寺はこの地にあったのはおよそ50年ほどです。

●山科本願寺跡

史跡指定は蓮如の隠居地である南殿と土塁跡です。山科本願寺は城郭史にとっても重要です。当時の宗教勢力は戦乱の渦中にありました。山科は交通の要衝ですが、要害ではありません。伽藍や寺内町の展開にはよいのですが戦闘には不向きです。その為に城郭としての機能充実がはかられました。本丸、二の丸、三の丸に相当する曲郭や土塁、堀が用意されました。
中世の城は屋形に手を入れた程度ですから城兵が連携して戦う構造は戦国城郭に向かう過渡期に思えます。
      (参考 新田荘の屋形跡:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-c7c2.html)

■南殿跡   

空き地になっていますが、復元保存はされていません。 南殿は蓮如の隠居した地です。広大です。

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■解説版 山科駅から徒歩15分ほど。

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■蓮如上人御廟所
 つまりお墓です。南殿から土塁跡に向かう途中にあります。元は本願寺内でした。

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■土塁跡1 北側より
 かなりの規模の土塁です。 手前は堀跡のようです。本願寺は灰燼に帰して、大坂に移ります。土塁は8mほどです。秀吉のお土居に近いと思いました。

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■土塁跡2 南側より
 寺の内部からの写真 真ん中に小さな石柱があります

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■土塁跡のある中央公園の案内板

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 この地域、今も多くの寺院があります。土塁は長くこの地に残っていたようですが住宅開発が進み今は少なくなりました。山科駅からランニングでまわってきました。発掘調査資料を探してみないといけませんね。

◆史跡 山科本願寺南殿跡(附:土塁跡)

 所在地① 南殿跡 京都市山科区音羽伊勢宿町
 所在地② 土塁跡 京都市山科区西野阿芸沢町(山科中央公園内)
 アクセス 地下鉄東野より徒歩10分(山科からぶらぶら歩くのをお勧めします。
 MAP

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ランニング姿勢は背中が大事

しばらく足元を気にして走っていたから背中が寝ていました。

ランニングは背中にエネルギータンクを背負って走るようなものです。

姿勢が悪いとうまくエネルギーが体をまわらない。

今日は約10kmを姿勢だけに注力して走りました。

タイムはまだ1km6分近くかかっています。

今日も寒かった。

雪に眼を向けながら走っていたら気分が悪くなりました。

しかし寒かった!

明日は節分です


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