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滋賀県の史跡 小谷城跡 ふたたび

はるみちゃんと湖北にドライブで、小谷城址を再訪しました。

前回は雪で山頂まで進めず。

http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-ac8b.html

【五大山城のひとつ 小谷城址】

滋賀県の湖北は農村地帯です。都市化しておらず、高い建物もありませんから戦国時代の時間や距離感が体感できます。

グーグル・アース(Google Earth home http://earth.google.com/)から作製

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京都が日本の中心であった時代、東日本から京都に大軍を送るにはこの地を通るしかなく、必然として戦闘が行われました。

小谷城から関が原は20kmほど。関が原は古代には不破の関と呼ばれ壬申の乱の攻防の地にもなりました。
織田信長が上洛にさいして、浅井家と婚姻関係を結んだのは高い戦略視点だったでしょう。

近江の北は同盟国の朝倉氏の領地で、山本山城などの付け城も整備されていました。

●案内板 

尾根に城があり、通常は清水谷の屋敷群で生活をしていたはずです。

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●桜馬場から眺める 手前の丘は虎御前山 織田軍の最後の陣地があったところです。

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●長浜市街地を眺める 右奥の湖畔に長浜市街

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【小谷城の成立】

浅井三代の居城で時期は不明ですが、1525年迄には築城されていたようです。
落城は1573年です。三代50年ほどの居城です。
近江は北部は京極氏、南部は佐々木氏が支配をしていました。共に佐々木源氏でしたが歴史は複雑です。

初代亮政は京極家(佐々木氏)の被官として地位を確かなものにし、北近江の実質支配者となっていきます。

その居城が小谷城です。

二代久政は毀誉褒貶のある人物ですが、亮政が作った基盤を守りつつ、北近江の地盤の安定に力を尽くします。

三代長政は、南近江の居城観音寺城で生まれていますから、佐々木氏の庇護のもとに成立していたのでしょう。

長政が成人後、佐々木氏と敵対し庇護をはなれます。

北陸の朝倉氏とは良好な関係を築いていきますが、新興の織田氏と結ぶことで新たな時代を迎えます。

●桜馬場址

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●本丸址から

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正面の石垣が 鐘丸址 天守台に似た役割だったのでは。

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案内板

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鐘丸址から本丸・大広間を望む  緑が深くて鮮やかです。

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本丸は今日の感覚では、家が10件程度がたつスペースです。たぶん100名がつめるのが限界でしょう。

天守台の石垣

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●京極丸

 山の上に久政のいる小丸が、下には長政のいる本丸があります。

 秀吉軍は谷を上り、空白地であったこの京極丸にとりついたのでしょう。

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小丸・京極丸案内板

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小丸より京極丸を眺める

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小丸跡

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小丸跡から山王丸跡への石垣

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山王丸跡案内板

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山王丸跡

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この後、清水谷をおります。平時には、屋敷のあった場所です。

●重臣 大野木土佐の屋敷跡

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●重臣 三田村佐渡の屋敷跡

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●城主の平時の屋敷跡 平地にはもう少しです。

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●虎ケ谷  大手口か?

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現在城跡は途中まで車であがれるようになっています。今年はバスで送迎もなさっていますが、本来の道ではなさそうです。

立地からみとても、恐らくこの虎ヶ谷道が大手口であったでしょう。

木村嘉伸

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