2012年5月16日 (水)

古都鎌倉 no.4-3 亀ヶ谷坂切通・巨福呂坂切通

    七口のうち比較的市街地に近い両切通は国道、JRが通り当時を想像することも難しくなっています。鎌倉時代後期
    には鎌倉街道の上ツ道と中ツ道がこの切通を通っていたようです。


    切通の大船側は山ノ内地区で北条得宗家の本拠でした。現在は北鎌倉地区とも呼ばれ建長寺や円覚寺など北条氏
    と関わりの深い寺院が残っています。従って鎌倉時代には何度も切通の整備が行われています。平安以前もルートは
    あったはずですが明確な痕跡はありません。七口すべてに言えることですが、今に残るルートが鎌倉時代のものか否
    かははっきりしません。現代もそうですが道は交通事情で変わります。

    ●亀ヶ谷坂切通・巨福呂坂切通map 
Photo

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   ■亀ヶ谷坂切通 舗装されて生活道路になっています。

    ●北鎌倉駅より県道21号を10分弱あるくと長寿寺が現れ、横の道を登っていきます。

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    “史跡切通”というより町並みが美しい。自然の石を使った家囲のようでした。道は舗装されています。
    ●5分程度で峠の切通があらわれます。
Cimg6291
    ●解説版
Cimg6296     この切通は扇が谷につながっています。すぐの場所には源義家や義朝の居宅跡があり、浜方面に下ると
    郡衙がありました。たぶん古代から重要なルートだったことでしょう。  

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   ■巨福呂坂切通  七口の内唯一廃道になっている切通です。
    ●鶴岡八幡宮の車お払い所の通り向かいのレストランの横の道を上っていきます。案内はありません。
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    ●普通の生活道路です。
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    ●少し行くと(見えていますが)道が二つに。ここに史跡標柱がありました。見落としそうてすが。
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    ●右側の道を上ると青梅聖天社があらわれますが切通のと関係はなさそうです。その先で突き当たります。
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    この先は私道とのことです。他の切通との比較だともっと高い場所を通っていたのではと思いました。
    残念ながら巨福呂坂切通はここまでです。

    切通は地形を理解しながら足を運ぶと疑問がたくさん出てきます。残りは西鎌倉の切通3つです。

                                                  きむらよしのぶ 

2012年5月15日 (火)

古都鎌倉 no.4-2 名越切通

    名越切通は鎌倉から逗子市、横須賀市に続くルートの入口です。律令時代の東海道は鎌倉から三浦半島に出て
    突先の走水から東京湾を渡り内房(富津岬)に繋がっていました。現在の横浜市~東京にあたる武蔵国は内陸部
    の東山道に属していたからです。都から発した東山道は近江を過ぎると内陸を通り群馬県で南下し東京都府中市
    に至ります。武蔵国府は府中市にあったからです。府中市からはもう一度北上し栃木県に向かっていました。
    不効率なルートです。9世紀に修正され相模国から武蔵国につながります。前置きが長くなりました。つまり鎌倉
    に幕府ができる以前からこのルートはあったと考えられます。


    武士が勃興し三浦半島を支配したのは平氏の流れをくむ三浦氏です。三浦氏の歴史は古く、鎌倉郡衙に出仕した
    土着の役人であったことがわかっています。前九年の役の功績が評価され三浦を領有することになります。
    三浦氏にも興味がありますがこのあたりにしておきます。


    さて名越切通です。朝比奈切通と同様に昔の姿を今日に伝えているようです。
 
    ●名越切通 map (赤いルートです)

Photo
    今回は鎌倉から逗子に抜けました。mapを見ればわかりますが、JR横須賀線と国道が平行して走っています。
    
    ●市街地からJR横須賀線を超えてすぐを左折した集落です。

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    ●集落のはずれで踏み切りを渡ります。

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    ●ここで案内が出てきました

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    ●またすぐ分かれ道です。右の坂を上がります。

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    ●急な坂道を過ぎると人工的な取り付け道路に。しんぱ~い

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    ●この先です。大丈夫かなぁ~

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    ●もっと心配になってきました。

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    ●なんとなく切通のにおいがしてきました。

Cimg6981_2    
    ●このあたりから足場が整ってきました。

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    ●ほぼ峠。道の真ん中の苔むした石。意味はわかりません。

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    ●峠の案内板  この先のまんだら堂やぐら群は封鎖中でした。

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    ●並んで解説版

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    ●亀が岡団地と小坪地区の分岐 すぐ第一切通です
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    ●第一切通  峠から少し降りた場所です。

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    ●第一切通からすぐの標識

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    ●逗子側の入り口です。

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    今回のルートは30分程度でした。
    足を運んで思うのですが、古代の旧東海道が岩場を加工した切通であるわけがなく、鎌倉以降に設置された
    ルートだと感じました。 また三浦氏の攻勢を防衛する為の切通であるというのも理解しがたい。三浦氏の勢力
    は三浦半島だけでなく、相模国全体に及んでいたし鎌倉にも屋敷があるわけで、この切通を強化する意味が
    感じられませんでした。もう少し調べてみないといけません。

                                                   きむらよしのぶ     

2012年5月13日 (日)

古都鎌倉 no.4-1 朝比奈(朝夷奈)切通

    1241年源家の治世から北条執権体制になり三代泰時の時代にできた切通です。泰時はなかなかの名君と伝え
    られていますが、切通の工事に際しては自ら石を運び:現場を鼓舞したようです。


    上総広常の屋敷が切通の近くにありました。鎌倉創業期の功臣です。彼は千葉を地盤にしていました。金沢に港
    がありましたから、彼がこの地に屋敷を置いたのはルート確保の為だったのは。ということはなんらかの道は以前
    からあったのでしょう。拡張したのが1241年と理解すべきなのでしょう。

    ●朝比奈(朝夷奈)切通 全体map(赤のルート)

Allmap
     今回通ったルートを拡大しています。適度なハイキングコースです。

Map
    ●六浦側の入り口(環状4号:23号線沿いの案内)

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     私は六浦駅から歩いてきました。この場所まで30分ほどです。バスもあります。

    ●入った場所にある案内板
    鎌倉は、案内板が充実しています。ちょっとやりすぎぐらい年代ごとのものがあります。
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     横浜横須賀道路の下を通ります。どきどきさせます。

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     入り口から5分程度で象徴的な岩場の切通があらわれます。高い崖の威圧感はなかなかのものです。

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    ●「やぐら」といわれる岩肌を削った穴。一人歩きだとやや気持ち悪い。ハイカーが多いから救われます。

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    ●峠の一番上のやぐらです。落石注意がもっぱら。

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    ●朝比奈峠  昼なお暗しです。峠にはなんらかの管理施設があったのでしょうか?

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    ●いつの時代のものなのでしょうか?

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    ●下りに入ります。道は岩場です。水が流れていて大変です。ひっくりかえりそうです。今週雨はなかったので、いつも
    こんな風なんでしょう。

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    ●舗装道路に入る境目に導標
   Cimg6900
    ●同じ場所にある解説版 

Cimg6906
    ●梶原景時が上総広常を討ち取ったあと太刀を洗った場所らしい。伝承ではあるが意外に事実かも。
    いずれにしても景時、広常ともに切通の入り口に屋敷があったのです。

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    この先少しで人家も登場し鎌倉の街中に入ります。山の中をあるくのは3km、小一時間ほどでした。以外に道幅
    があり、むしろこのぐらいの道幅じゃないと物資は運べないだろうと思ったりしました。
                                                    きむらよしのぶ

古都鎌倉 no.4 鎌倉七口

    三方を山に囲まれた鎌倉。鎌倉を囲む山々は低山であるものの岩山で、簡単に道を作ることが難しいものでした。
    天下の政権がこの街にでき物流や防御の為に新しい道路が必要になりました。それが「切通」であり代表的な七つ
    の切通を鎌倉七口というようになりました。恐らく古代の郡衙があった頃から杣道のような山越のルートは存在した
    のでしょうが、馬や馬車を通すような道ではなかったはずです。国家にとって道路整備はいつの時代も大事ですね。
    「いざ鎌倉」という幕府の御家人の信頼関係を維持する為にも道路整備は不可欠なものだったはずです。

    ●鎌倉七口

    鎌倉七口は江戸時代の書物に登場する名数に基づくもので、重要性や歴史をあらわしたものではありません。
    鎌倉時代に呼ばれていたものではありませんので念のために。
    
Map_2

    七つの切通で歴史的趣があるのものは4つです。

      朝比奈切通
      名越切通
      大仏切通
        化粧坂切通

    舗装されて当時の趣がないものは3つです。

      極楽寺切通 ・・・ 一般道になっています。全く残っていません。
      亀ヶ谷坂切通 ・・・ 一般道になっています。
      巨福呂切通 ・・・ もう道が通じていません。

    どの道も現在では廃道やハイキングコースになっています。“首都”への入り口だった道路がハイキングコースに
    なっているという事実が面白いね。今日すべて歩きました。順次紹介していきます。

  
                               
                                                    きむらよしのぶ

    

鎌倉・逗子・七里ガ浜 トレイルラン してきました

    歴史散歩メインでハイキングコースをランしてきました。天気は抜群で、桜の時期よりは人出も少なく楽しめました。
    コースはジョグノートに。(http://www.jognote.com/user/131076/classic)

    ●七里ガ浜

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    ●江ノ島(稲村ガ崎より)
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    ●七里ガ浜(稲村ガ崎より)
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    ●極楽寺駅にあったサイン入りポスター
     いいドラマでしたね。前クールでは抜群だった。
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    ●江ノ電 乗ってもないのにプレートが撮影できるのは江ノ電らしいとこ。

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    次回は6月になりそう。見所が多くて今年いっぱいかかりそうです、鎌倉。
                                                  きむらよしのぶ

2012年5月12日 (土)

混み合った電車のベビーカーのマナー

最近気になることの一つが電車のベビーカーです。混み合った場面では

折り畳むのが公共マナーだったと思うのだがどうやろう?もっとも理屈

は別としても人込みの中では遠慮があるのがしかるべきやないかな?

首都圏の人出はどこへ行っても関西の比やないし私のような事をいいだし

たら子連れでは出掛けられなくなりますが配慮のない親が多いように感じ

てなりません。スペースとって恐れ入りますという心遣いが感じないし、

むしろ小さな子供を抱えた弱者なんだから周りが配慮すべきという主張す

ら感じる時があります。私の考えが古いのかな?自分の子供達の頃は人が

多い場所やから抱いていかないとあかんとはるみちゃんが判断していたよ

うに思う。今日も田園都市線と東急東横線で移動していますが、類似する

ベビーカーをみました。気持ち悪いわ〜
これって私だけなん?!

2012年4月29日 (日)

古都鎌倉 no.3 鎌倉国衙跡と源義朝館跡

    神奈川県は江戸時代までは相模国でした。時代をさかのぼって律令時代の相模国は8つの「郡」に分かれていて
    この地には「鎌倉郡」がありました。発掘調査の結果、鎌倉市役所付近に郡衙があったことがわかってきました。
    「郡」は現在にすると「市」にあたります。郡の長、郡司は在地の有力豪族から選ばれていました。郡司は平安時
    代に入り国司の受領化が進んだことで衰退をしたようですが、この勢力がその後武士化していったのではないか
    と思います。そう考えるとこの地には古代から武士政権のベースがあったのかもしれません。
    
    ということで今日は郡衙跡、源義朝の館跡を歩いてみました。
   

    ●鎌倉郡衙(今小路西遺跡)

    
    (1)場所

    現在の市役所、御成小学校の一帯の遺跡です。残念ながら標識・開設板も未設置でした。

Cimg6352_2

     小学校の校庭 正面の建物は鎌倉市役所

Cimg6368     (2)立地

Photo
    郡衙があった頃は鶴岡八幡宮もなく、若宮大路もありません。滑川は現在の流れではありません。
    背後に山を背負い、南には砂丘が形成した高台があり堤防代わりになっています。当時の街道がはっきりし
    ませんが鎌倉七口の化粧坂、極楽寺切通、大仏切通に近く交通至便な場所だったのでしょう。現代の市役所が
    同じ場所にあることが妙味ですね。人間のやることは時代が変わっても同じなようです。

    (3)規模

    都筑郡衙跡を訪れたことがあります。
         (以前の記事:http://c-forest.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-5f6f.html)
    小学校4つ分ほどで同じような規模だったと思います。

    残念ですが保存遺跡はありません。一回りしてこの土地の意味合いを感じるのが面白いかも。中央図書館が
    南側にありますから、資料を眺めるのもいいかも。私はそうしています。


    御成小学校正門前の道は今小路通りで、鎌倉時代以降南北の重要道路です。創設時期は明確ではありま
    せんが郡衙があった時期には当然成立していたはずです。ひょっとすると鎌倉街道が北から鎌倉につながり、
    古東海道が極楽寺切通を通っていたとすると今小路通りがメイン道路だったかもしれません。

    

    ●源義朝館跡(寿福寺)

    今小路通りを北に200mほど進むと山が迫り、寿福寺があらわれます。この地が源義朝の館跡といわれています。
    
    河内源氏初代源頼信、二代頼義は平忠常の乱の平定を通じて東国へ進出し、平直方の屋敷を譲り受け、
    鎌倉に拠点をおくようになります。三代は有名な八幡太郎義家です。数々の伝説を残した英雄です。彼の活躍は
    武門が宮廷政治に参入した歴史的なものでした。義家は東北の争いに参入し関東・東北に基盤を残したが、
    大変な苦労をしました。彼の没後東国での勢力は一時減退しますが、再び活発な活動を始めるのは義朝の
    時代です。義朝は東国に下向し在地豪族と連携し勢力を拡大していきます。放送中の大河ドラマ「平清盛」
    では玉木宏さん演じる義朝が関東下向後の勢力拡大ぶりをワイルドに表現していました。

    
    (1)立地

2
    今はJRが分断していますが、今小路通りは当時亀ヶ谷坂、化粧坂につながっていたでしょう。山あいを抜けて
    平野地を一望にできる傾斜地の上に立地しています。また館の裏には源氏山があり義家が兵を募るために
    源氏の白旗を山頂に掲げた伝説があります。繋がりを求めるときりがなくなります。
    
  
    (1)寿福寺  今日の大河で紹介されてましたね。偶然。

Cimg6350_2
   案内板

Cimg6346_2
    参道

Cimg6344_2
    裏山である源氏山へのルートです。こんなとこ通れるのか?

Cimg6340_2
    今日でまだ二回目です、鎌倉。こんな調子だと一年ぐらい掛かりそう。鎌倉は京都と同様に遺跡が残って
    いませんが調べていくとなかなか奥深い。本来相模国全体を見ないとクリアにならないことも多い。やれる
    ところまでやってみます。
                               
                                                    きむらよしのぶ

    

古都鎌倉 no.2 鎌倉の土地形成 「海中だった鎌倉の町」

    鎌倉の平野地は三方を山に囲まれています。市域は大船など内陸地を含んでいますが、ここでは平野地を中心に
    見ていきます。

    縄文時代前期、海面は5m程度高くなり(縄文海進)平塚市・藤沢市は大半が海に沈んでおり、鎌倉も平野地は
    ほとんどが海の底でした。

    □鎌倉・逗子 縄文時代前期の地形推定

Cimg6359    『神奈川県逗子市桟敷戸遺跡発掘調査報告書』
    ~鎌倉・逗子市の地形発達史と遺跡形成より転載 著:上本進二氏

    その後海面が低下し砂地があらわれます。陸地からの流水もあり、扇状地も形成されていきます。それ以前は
    山の上で生活をしていたようです。大船に近い常楽寺の裏山からは弥生時代の土器が発見されています。

    また現在の江ノ島電鉄沿いに砂州が形成されます。今日このあたりをじっくり歩いてみましたが2mほどの海抜
    差がありました。
   
    滑川が時代によって流れを変えます。流れを変えるということは氾濫も起こしたでしよう。しかし由比ヶ浜の
    砂州は避けざるを得なかったのではないでしょうか。従って現在の流れになったのではと考えました。
    
    古墳時代にはほぼ現在の平野地が形成されていたようです。由比ヶ浜には古墳もつくられていました。
    
    どうしてこの地に人が住みだしたのかが疑問でした。山に囲まれた狭い谷地のような場所に。
   
    今日、大船から北鎌倉、鎌倉と歩いてみました。恐らく縄文時代から現在の横須賀線沿いにやってきた人々は
    魚や貝をとっていたはずです。水が徐々に引いたはずですから、低湿地の場所も多かったでしょうね。むしろ
    そのことがアプローチしやすかったのかもしれません。
                                                 きむらよしのぶ 


     
    
    

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