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近江国庁関連遺跡その2 国史跡 『堂ノ上遺跡』

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台地上につくられた近江国庁の官衙遺跡。国庁と同様の瓦などが見つかって特定されました。


野畑遺跡から建部大社の方向に向います。

史跡は途中に案内板がなくわかりにくい。

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振り向くと坂がよくわかります。

右折して丘を登ります。

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お住まいを賑やかすようでもうしわけないです。

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少し登ると歴史標識があり、発掘地がひろがります。

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この資料は2011年に入手したもので、まだ手元にありました。ありがたい。

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史跡の南側には高校があります。国庁が存在した頃にはこの下に道があったようです。

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◆国史跡 堂ノ上遺跡

所在地 大津市神領3丁目-4

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近江国庁関連遺跡その1 『近江国分寺跡 瀬田廃寺』、『野畑遺跡』

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瀬田廃寺跡から瀬田川方面を


旧分国で初めて国庁が発掘・発見されたのは近江、現在の滋賀県。滋賀県は古代から有力な国でした。全国で10ある大国のひとつでした。

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瀬田廃寺は国分寺跡で、国庁に近い高台に存在しました。近江国分寺は三か所に移転しています。紫香楽からこの場所、次は石山と推定されています。

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桑畑廃寺ともいうのですね。名前の意味はわかりませんでした。

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2011年12月に滋賀県埋蔵文化財センターで遺構の展示がありました。現在の石柱があるのは塔の跡のようです。国府周辺では一番の高台にあり、素敵な場所だったと思います。



名神高速沿いに坂を下りると野畑遺跡があります。


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公園に歴史標識がありました。

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国府の役所の一つと推定されています。残念ながら、史跡指定は受けていません。

史跡指定を受けている地区を目指します。


◆瀬田廃寺、野畑遺跡

所在地 瀬田廃寺  大津市野郷原1丁目2
      野畑遺跡  大津市野郷原2丁目3


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木之本 もみじの鶏足寺

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今年は紅葉も早いようです。もう一週間早いともっとすごかったでしょう。鶏足寺とは今年初めて知ったお寺です。


大寺であった面影はありません。呼び名も複数あるようです。
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まほろばの語源を知りました。
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しっかりした案内図もあります。
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いい天気で抜群でした。
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■鶏足寺

滋賀県 木之本

史跡 小原鐵心邸跡

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小原鉄心は幕末に大垣藩を指導した人です。筆頭家老ではありませんが、藩の主導者として幕府の戦闘にも参加し、幕末のかじ取りは新政府に属し、戊辰戦役でも活躍しました。

達人です。

大垣に立ち寄りました。駐車場跡に歴史石柱がありました。幕末維新に大垣藩を救った英雄の石柱ですが、なんだかさみしいですね。

◆史跡 小原鉄心邸宅跡
 
  住所大垣市郭町東1丁目7

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畠山義就、細川藤孝、明智光秀の居城 勝龍寺城跡

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この城は応仁の乱の主役の一人、畠山義就の居城でした。応仁の乱に注目があつまっていますが、こんなところに出会いがあるとは不思議です。

その後、織田信長の時代に細川藤孝の居城となり、明智光秀が山崎の合戦の本拠にしたことで歴史上に名を残すことになります。

犬川と小畑川に挟まれた場所に築かれた城です。京都への侵入を防御する役割がありました。

縄張りを見ると中世の屋形風の城が見えてきます。
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JR長岡京駅からスタートします。10分ほどで土塁跡につきます。
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ゆっくり10分ほど歩くと土塁跡につきます。神足神社にあります。
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真ん中の小丘が土塁跡です
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土塁上から空堀を眺める。
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整備前と整備後の比較写真がありました。
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高さ約6mとのこと。見ごたえがあります。

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ここから本丸跡はすぐです。公園化されています。公園名は勝竜寺なんですね。
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模擬塀と櫓です。土塁だけでなく石垣も使っていたようです。
本丸跡と岩田丸が残っています。
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城内は公園になっています。櫓などの建物も疑似的なものばかりです。

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北門跡と沼田丸との境の石垣
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沼田丸も公園です
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中世の屋形をイメージして訪れるとしっくりくると思います。この後山崎の合戦の古戦場に向っても15分ほどですから、いい歴史散策になります。


■勝龍寺城跡

所在地 長岡京市勝竜寺
アクセス JR長岡京駅より徒歩10分

縄文時代の水産加工場 国史跡 中里貝塚

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この界隈は縄文時代の縄文海進時期、海に面した土地でした。今も、平地と丘陵地が明確になっています。

中里貝塚は距離1km、高さは4m以上の規模が残っていて、それも貝などの水産加工が進んだ場所でした。びっくりする規模です。

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貝層断面は国内最大厚。500年にわたる貝塚だったようです。
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史跡は3か所に点在しています。

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◆国史跡 中里貝塚

所在地 北区上中里2-8ほか
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古代の役所 豊島郡衙跡(御殿前遺跡)

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飛鳥山博物館の説明版です。
古代の東京埼玉は武蔵野国で国府は現在の府中市にありました。武蔵野国は21の郡に分かれていて、そのうちの一つが豊島郡で現在の北区に郡衙(役所)がありました。

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滝野川公園を入ったところに歴史標識があります

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事前に知らないと見落としてしまいそうです。

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古代の駅 はっきりしない駅は多いですが、豊島は地形からみてもここなんでしょう。

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■豊島郡衙跡 御殿山遺跡

アクセス JR京浜東北線上中里駅 徒歩5分、
      地下鉄南北線西ヶ原駅(1番出口) 徒歩5分

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太田道灌の城 都旧跡 稲付城跡

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作延城跡

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自宅からランニングで作延城址にいきました。
JR南武線津田山駅から10分程度ですが、大型霊園である緑ヶ丘霊園の中ですので、わかりやすいです。駅を出ると坂を上ります。
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霊園の入り口までは5分程度です
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霊園に入ると管理施設を右に見ながら登っていきます。

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園内の地図です。区画は6区のようです。
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わかりやすく案内版もあります。
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登り切ったあたりが6区です。写真をとり忘れましたがビューがいいです。
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ここから北側にいくつかの城跡がありますがビューはここで一番です。桜もいいと聞きました。

池尻に海が迫っていた時代 東山貝塚遺跡

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縄文海進がもっとも進んだ6000年前の目黒は目黒川に海水が入り込み、現在の池尻あたりは入江のような場所でした。 今も中目黒から池尻あたりを散策すると谷底のような印象を持つと思います。地図の白い部分はこの時代、海だったろうところです。

東山貝塚遺跡はこうした海岸線にあります。 貝塚だけではなく住居跡もあり、生活感のある遺跡です。 土地の高低差を楽しむのも貝塚の魅力です。

目黒区の遺跡解説を見るとかなりの規模だということがわかります。

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あくまでも模擬施設です。

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こうした公園が出来ているだけでもありがたいです。子供たちに学んでほしいものです。

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このイラストは面白い。奥に富士山、手前の水辺は現目黒川のようです。

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近江大溝城跡

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京極高次とお初で売っているようです
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このルートを進むと本丸跡にいたります。ちょっと心配になります。

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分部神社の横を内堀沿いにあるいて天守跡に向います。小ぶりです。
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そうするとすぐ本丸跡です。崩れ果てた石垣が登場します。
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信澄の築城なのですね。
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江戸時代は2万石弱の土地だったようです。城主だった分部氏に知識がありません。
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物悲しいですね、この石垣は。湖北を管理する水城だったのでしょう。
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5世紀乙訓の支配者 国史跡 恵解山古墳

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乙訓古墳群は11基の古墳が平成28年に国の史跡指定を受けました。その中で最大規模なのが恵解山古墳です。

墳丘から南側を。向って右の山は天王山です。
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墳丘は三段になっています。
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スケールのある標柱です
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後円部はお墓になっています。
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多くの鉄製武器が発掘された珍しい古墳です。この地域の支配者だったのでしよう。
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たくさんの武器も出土しました
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鉄製品が700も出土しました。大変珍しいものです
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丁寧に保存された古墳です。メンテが大変です。
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古墳の名称の由来が知りたいのですが、みつけられませんでした。
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明智光秀 本能寺から明智藪までの11日間

1582年6月2日 光秀軍は本能寺を襲撃し織田信長を打ち取ります。

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翌日3日、光秀は信長の本城である安土城に向いますが、瀬田川を守る山岡景高が瀬田の唐橋を焼き抵抗します。

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光秀は瀬田から領地である坂本城に入ります。


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中一日で橋を修復し、

6月5日、安土、長浜などに進軍し、抑えにかかったようです。

6月7日、勅使が安土に到着します。戦勝を祝す内容だったようです。

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一旦、坂本城にもどります。

6月9日、光秀は京都に入ります。

近江を押え、大和は筒井家との接点もあり、京都北部は自領でもあったわけで、順調に抑えていったはずでした。このあと、河内の抑えに入ります。

おそらくこの頃に羽柴秀吉の進軍情報を得たと思います。大軍の進軍ですから、少しずつ情報は入っていたと思いますが、確報を得たのは11日ぐらいではないでしょうか。

秀吉軍は6月11日に尼崎に到着しています。

ここまで光秀は十分な手を打ったはずです。後手に回ったというより秀吉が時を得たのだと思います。

6月13日、そして山崎の合戦です。

兵数は半分とも1/3ともいわれる兵力差です。光秀は淀城や勝竜寺城を修復しそなえたようですが、要害でもなく時間もありません。12日から局地戦はおこなわれていたようです。

13日夕方、本格的な戦闘が始まります。

(光秀本陣の古墳上から天王山を望みます)

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(古墳上にある山崎合戦の説明版)

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明智軍の陣地跡に石柱がありました。当時の地形がわからないのですが、川を前にした高台の陣です。

序盤は明智軍が攻勢でしたが、秀吉軍が東側の淀川河畔から側面をつき前線が崩壊し、明智軍は敗れ去ります。

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一旦、勝竜寺城に後退した光秀ですが、兵の離脱も多かったようで坂本城への撤退を偽なくされます。

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そして途中の山科小栗栖の竹藪で、落武者狩りに襲われ生涯を終えます。

敗者は歴史をつくれません

山崎合戦古戦場 明智陣

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新しい歴史標柱が増えました

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織田信長公本廟 阿弥陀寺

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鴨川ランの途中ちらっと見た地図に本廟を発見し、立ち寄りました。
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信長公の墓は全国にたくさんあるが、本能寺の変のあともっともはっきりした事実で埋葬されたのはこの阿弥陀寺です。

阿弥陀寺 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町

立川市指定史跡 大和田遺跡

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東京都指定史跡 立川氏館跡

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幕末の剣客 桃井春蔵道場 士学館跡

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幕末江戸の三大剣術道場の一つ、桃井春蔵道場がこの公園にありました。 三大道場の中では一番古く有名な直正は四代目です。『位の桃井』といわれたようで、私は威厳のある武人という印象を持っています。 幕府に取り立てられましたが、戊辰戦争には反対し大阪に残り、新政府と関係ができます。 直正の最後は誉田八幡宮の宮司だったようです。 大阪で最後だったとは、わからないものです。

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桃井道場としての歴史標識はありません。残念ですね。

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この近くには土佐藩邸もありました。

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赤坂 勝安房邸跡

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新井白石終えんの地

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新井白石の最後の屋敷跡が千駄ヶ谷にありました。
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当時の痕跡はありません。
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何も残ってはいません。当時は郊外で鄙びた場所だったようです。
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高田馬場跡

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神戸市垂水区 史跡 五色塚古墳

五色塚古墳の後円部よりDsc_0663_2
駐車場に車をとめ、入口に向います
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前方部より
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右の小さな建物が事務所です。展示物があります。

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後方部の外側から
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海岸線に出て、湾のアウトレットに立ち寄りました。そこからみた古墳。ピラミッドみたいです。

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アカシゾウ発掘地

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綺麗な海岸線に発掘地があります。この日はまたいい天気でした。

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海岸に降りる坂上に地図がありました

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発掘地です

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解説板 

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大津 柳川の桜

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家のそばにこんな素敵な桜みちがありました

琵琶湖疏水の桜

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いつみてもあざやかです

第93回 箱根駅伝 芦ノ湖 観戦記

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箱根駅伝を観てきました。観戦記みたいに紹介します。

1月2日
6時20分  鷺沼を出発
8時12分  箱根湯本に到着

箱根湯本駅
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8時30分  箱根湯本駅でトランクサービスに荷物を預ける

駅前には箱根町(芦ノ湖折り返し)までの直通臨時バスが待ってました。
バス会社のスタッフがたくさんいらっしゃるのですぐわかります。
10分程度で満席になり出発です。
箱根新道を通るので駅伝ルートではないですし、温泉街も通りません。
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約30分で芦ノ湖に到着。
なんども見た往路ゴールのすぐ横にバス停があります。
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到着したのは9時すぎ
既にかなりの人でした。

普段見ている往路ゴールの先にはスポンサーや地元の観光支援のテントが並び様々なグッズを無料配布していました。
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かなりの人ですし案内があるわけではないので人の波に押されながら自然に並ぶと
トヨタ自動車さんのグッズやら読売新聞の小旗やら湯河原のみかんもやってきてご機嫌です。

時間を忘れさせる工夫で感心します。

広場の奥には大型スクリーンがあってキャンピング用の折り畳み椅子でじっくり観戦している方が多い。

慣れておられる印象です。
結果的にスクリーン前が一番いいかもと最後に思いました。でも好みですけどね。

10時すぎ
そろそろゴール前を眺めると既に場所取りのシートが多数。
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ゴールをみるという魅力に勝てず、そのまま場所取りすることを決めました。

ゴール前の通路は狭く、申し訳ない次第です。

11時頃には私のような方ばかりで通路はいっぱいです。

テレビでみていたゴール前はこんな裏側だったかた感心しきり。

何回も何年もこの位置に来られている方もいてじわじわと周囲と駅伝コミュニティが出来て盛り上がっていきました。

先頭の青山学院が5区に入るとまわりのスマホでテレビやラジオの情報がはいります。

この頃になると場所取りをしている方が戻りゴール前がやっと落ち着いてきました。面白いもんですね。

テレビカメラのセッティングも終わり、ゴールテープを切る撮影タイミングを計るためTVスタッフが何回かゴールを試していました。
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準備が終わると関係者が観戦されてる方に話しかけてこられました。

私のような前に座っている方は前日から席取りをしておられてビックリです。

我々も大津から来ていますから変わってるのかもしれませんが。

レースは下馬評通り、青山学院がトップでゴール。
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あっという間のゴールで"ワア"となったのもいっときでした。

少し観戦の方もバラけ出したので私たちも表彰式会場に移動しました。
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しかし、あっという間に人が移動します。すぐ動かないと混むからでしょう。

14時40分
我々は強羅泊まりなので海賊船で桃源台に向かいます。
とはいえ、港は長蛇の列です。ツアーの方が優先されるので2便待ちで乗船

桃源台からロープウェイにのり何度か乗り換えて上強羅に到着しました。
16時半でした。

かなり堪能したので復路はテレビ観戦と決めてゆっくりしました。

かなり面白かったです。

赤穂事件史跡 大石内蔵助他十六人忠烈の跡

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元禄15年12月14日、世界に日本人のなんたるかを印象づけるできごとが起きました。

赤穂浪士の吉良邸への討ち入りです。

12月15日の朝4時ごろ四十七士は吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首をはねるまで約2時間を要しました。

冬の早朝6時頃、寒かったでしょうね。一行は高輪の泉岳寺に向けて2時間程度歩きます。約10kmの道のりです。

映画やドラマほどではなかったでしょうが、一行の通過を聞きつけて人々が集まってきました。

突然、訪問された泉岳寺は驚きとともに、冷静にまた称賛をもってもてなします。

泉岳寺に向かう途中、大目付仙石伯耆守に報告し、幕府の沙汰を寺で待ちます。

幕府の首脳は江戸城に集まり、とりあえず四十七士を四家に分割して預けます。

四十七士にとって泉岳寺で過ごした時間はどんなものだったのでしょう。


浪士が切腹するのは2月4日です。

大石内蔵助が切腹した細川邸の跡の写真です。

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◆大石内蔵助以下十六人忠烈の跡

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国史跡 荻生徂徠の墓

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江戸時代中期。赤穂事件に対して、四十七士の処刑を主張した学者です。彼は柳沢吉保に仕え、幕府にも出入りしていました。最後まで江戸府内に身を置いたようです。八代吉宗は幕府に出仕させようとしたようですが、至らず病で死に至ったようです。

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◆荻生徂徠の墓

所在地 東京都港区三田4-7-29

アクセス 地下鉄白金高輪駅より徒歩5分
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