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近江大溝城跡

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京極高次とお初で売っているようです
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このルートを進むと本丸跡にいたります。ちょっと心配になります。

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分部神社の横を内堀沿いにあるいて天守跡に向います。小ぶりです。
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そうするとすぐ本丸跡です。崩れ果てた石垣が登場します。
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信澄の築城なのですね。
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江戸時代は2万石弱の土地だったようです。城主だった分部氏に知識がありません。
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物悲しいですね、この石垣は。湖北を管理する水城だったのでしょう。
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明智光秀 本能寺から明智藪までの11日間

1582年6月2日 光秀軍は本能寺を襲撃し織田信長を打ち取ります。

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翌日3日、光秀は信長の本城である安土城に向いますが、瀬田川を守る山岡景高が瀬田の唐橋を焼き抵抗します。

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光秀は瀬田から領地である坂本城に入ります。


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中一日で橋を修復し、

6月5日、安土、長浜などに進軍し、抑えにかかったようです。

6月7日、勅使が安土に到着します。戦勝を祝す内容だったようです。

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一旦、坂本城にもどります。

6月9日、光秀は京都に入ります。

近江を押え、大和は筒井家との接点もあり、京都北部は自領でもあったわけで、順調に抑えていったはずでした。このあと、河内の抑えに入ります。

おそらくこの頃に羽柴秀吉の進軍情報を得たと思います。大軍の進軍ですから、少しずつ情報は入っていたと思いますが、確報を得たのは11日ぐらいではないでしょうか。

秀吉軍は6月11日に尼崎に到着しています。

ここまで光秀は十分な手を打ったはずです。後手に回ったというより秀吉が時を得たのだと思います。

6月13日、そして山崎の合戦です。

兵数は半分とも1/3ともいわれる兵力差です。光秀は淀城や勝竜寺城を修復しそなえたようですが、要害でもなく時間もありません。12日から局地戦はおこなわれていたようです。

13日夕方、本格的な戦闘が始まります。

(光秀本陣の古墳上から天王山を望みます)

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(古墳上にある山崎合戦の解説板)

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明智軍の陣地跡に石柱がありました。当時の地形がわからないのですが、川を前にした高台の陣です。

序盤は明智軍が攻勢でしたが、秀吉軍が東側の淀川河畔から側面をつき前線が崩壊し、明智軍は敗れ去ります。

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一旦、勝竜寺城に後退した光秀ですが、兵の離脱も多かったようで坂本城への撤退を偽なくされます。

そして途中の山科小栗栖の竹藪で、落武者狩りに襲われ生涯を終えます。

敗者は歴史をつくれません

山崎合戦古戦場 明智陣

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織田信長公本廟 阿弥陀寺

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鴨川ランの途中ちらっと見た地図に本廟を発見し、立ち寄りました。
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信長公の墓は全国にたくさんあるが、本能寺の変のあともっともはっきりした事実で埋葬されたのはこの阿弥陀寺です。

阿弥陀寺 京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町

立川市指定史跡 大和田遺跡

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東京都指定史跡 立川氏館跡

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幕末の剣客 桃井春蔵道場 士学館跡

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幕末江戸の三大剣術道場の一つ、桃井春蔵道場がこの公園にありました。 三大道場の中では一番古く有名な直正は四代目です。『位の桃井』といわれたようで、私は威厳のある武人という印象を持っています。 幕府に取り立てられましたが、戊辰戦争には反対し大阪に残り、新政府と関係ができます。 直正の最後は誉田八幡宮の宮司だったようです。 大阪で最後だったとは、わからないものです。

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桃井道場としての歴史標識はありません。残念ですね。

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この近くには土佐藩邸もありました。

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赤坂 勝安房邸跡

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新井白石終えんの地

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新井白石の最後の屋敷跡が千駄ヶ谷にありました。
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当時の痕跡はありません。
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何も残ってはいません。当時は郊外で鄙びた場所だったようです。
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